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日本人と死後世界
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  (6)異相往生 -難行・苦行の浄土行

 「僧尼令」において、僧の焼身捨身は禁止されていたが、実際には、唱名念仏による極楽浄土を欣求する信仰の他に、焼身、入水という過激な方法で往生を願った僧侶達もいた。

◆焼身

 焼身は、「法華経」の薬王菩薩普門品の中に出てくる喜見菩薩が、仏の供養のために身を焼く故事を真似たものである。「大日本国法華経験記」(第9)に日本最初の焼身として記されているのは、紀伊熊野那智山の僧応照の焼身である。

 この僧は、法華経の「薬王品」を転誦するたびに、喜見菩薩が身を焼き肘を焼いたことに「恋慕随喜」した。そこで念願を起こして、自分も薬王菩薩のように、我が身を焼いて仏に供養しようと思い、穀と塩を断ち、甘い物をやめ、松葉を食べ雨水を飲み、内外の不浄を清めた。焼身に臨んでは、新しい紙の法服を着て、手に香炉をとり、薪の上に結跏趺坐して、西方に向かい、諸仏を勧請して発願の言葉をのべた。
 定印を結び、妙法を誦し、心の三宝を信じた。体は灰になっても、経の声は絶えなかった。乱れた様子もなく、煙りも臭くなく、沈檀の香の香りがし、数百羽の鳥が鳴いて飛んだ。

 この焼身が何時行われたかは明確ではないが、その後、同じような焼身供養が続出した。
 たとえば、長徳元年(995)9月、六波羅蜜寺の僧が、菩提寺の北辺で焼身供養し、花山天皇や貴族たちが見物した。(「日本紀略」長徳元年9月15日条)その翌日には、近くの阿弥陀ケ峰でも焼身自殺があった。(「百錬抄」同年9月16日条)
 また万寿3年(1026)(「左経記」7月15日)、治暦2年(1066)(「扶桑略記」5月15日)、には、僧尼が鳥辺野、船岡で焼身自殺し、人々が見ている。

 焼身供養の場合は、焼身者の極楽往生のみでなく、見る人々も共に極楽浄土を目のあたりに体験し、浄土往生を期待させるという性格をもっていたといわれる。
 入水往生は、平安時代の後期、つまり12世紀の中頃以降に実行する人が現れ始める。これについては別項で述べる。

◆入水、縊死

 その他の異相往生の例としては、桂川への身投げ往生(「宇治拾遺物語」)、首吊り往生(「沙石集」)などが記録されている。

◆難行・苦行

 往生のための苦行も、いくつか肉体を酷使するかたちで行われた。その第1が断食であり、穀物や塩を断つことである。これについては別に述べているので省略する。

 第2は、自分の体の一部を仏に捧げることにより、その代償として極楽往生を獲得する方法をとった人がいた。たとえば、丹波国の仙命という僧は、四天王寺に詣でた時、聖霊堂の前において、手の中指を燈して尊像を供養したら、紅燭の光の前に青竜が現れた。このことから、処々の道場で指に燈して仏に供養した。(「拾遺往生伝」上9)
 指を焼くことも、焼身の一種として禁止されていた筈であるが、行われた例である。

 さらに酷い例で、自分の手の皮膚をはがして仏に供養した人もいた。
 伊勢国飯高郡上平郷のある尼僧は、長年、手の皮をはいで極楽浄土をそこに写したいと考えていた。しかし自分で剥ぐことができなかったところ、一人の僧が来て尼僧の手の皮をはがして見えなくなり、極楽浄土を写して持ってきて、尼僧はそれを片時も離さなかった。
 臨終の時、天に音楽が聞こえて、尼僧は極楽へ往生した。(「日本往生極楽記」32)
 「今昔物語」巻15第51にも、伊勢国飯高郡の老嫗の極楽往生潭があるが、手の皮の話はない。






 
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