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  4.美人の死後伝説

 古来、歴史に残るほどの美人はあまり幸せな死に方をしない人が多い。もてない男どもの怨念のせいかもしれない。クレオパトラも楊貴妃もそうであった。日本で歴史に残る美人といえば「小野小町」であるが、この方も死後、可哀想なくらいひどい取り扱いを受けている。しかもそのほとんどすべてが眉唾ものの話であるとすると、ますます、もてない男どもの逆恨みに思われてくる。

 小野小町は、「小倉百人一首」の歌でも知られた平安初期(840年頃)に実在した女流歌人である。美貌でしかも「六歌仙」の一人という才媛であったにもかかわらず、生年も没年も不明で、その生涯はなぞに包まれている。そのくせ、不思議なことには伝説だけは多く、しかもその内容は悲惨なものが多い。

 鎌倉期に書かれた「古今著聞集」は、小町が生きた時代から3百年以上後になるが、小町についてはあまり良くは書いていない。そこでは小野小町が若く色好みの頃は、中国の王妃も及ばないほどの奢った生活をしていた、と書いている。「衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍をととのえ、身には蘭麝を薫じ、口には和歌を詠じて、よろずの男をばいやしくのみ思いくたし」(巻5)た、と書かれている。
 そしてその後で、17歳で母、19歳で父、21歳で兄、23歳で弟を亡くして、たった1人になった。頼る人もなく美貌も日々に衰え、家は破れ庭も荒れ落魄れて、はては野山をさまよった、と書かれている。

 これを読むと、小野小町は大変気の毒な境遇であり、同情されてしかるべきものなのに、なぜこのようにひどいことを書かれなければならないのか?と思う。しかし他の伝説では、もっとひどいことが書かれている。

 鎌倉期に成立した「古事談」には、在原業平が東下りの旅の果てに経験した話がある。奥州八十島で宿を取った夜、野原の中から和歌の上の句を詠む声が聞こえてきた。その言葉は、「秋風の吹くたびごとに、穴目穴目」と聞こえた。声の方へ行ってみても、人の姿はなかった。明るくなってから見ると、そこには1つの髑髏があり、目からススキが出ていた。風が吹くたびに、ススキの靡く音がこのように聞こえていた。不思議に思っていると、ある人が、小野小町がこの国に来て、ここで亡くなり、あの髑髏は小町のものであるといった。そこで業平は、かわいそうに思い、下の句を「小野とはいはじ、薄生いたり」とつけた。

 また「童蒙抄」には、この歌は「小野小町集」にあるという。昔、ある人が野中を歩いていて、この歌を詠ずる声を聞いた。立ち寄って声の主を探している間、詠じていた。その薄を取って、髑髏をきれいな所へ安置して帰ったら、その夜に小野小町がお礼に現れた。鎌倉期には、この「古事談」をもとにしたと思われる「小野小町盛衰絵巻」という絵が描かれている。そこでは小町の死亡直後から、遺体が腐敗し、犬やカラスに食い荒らされていく小町の姿が冷酷なまでにリアルに10コマの絵に描かれている。

 「古今目録」によると、小野小町は出羽国の郡司の娘で、数十年の間、京にいて好色であった。そして本国へ帰って亡くなったので、屍は八十島にある。小野は、姓であり、住所であると書かれているが、小野小町の祖父は有名な参議小野篁(たかむら)であり、その息子が地方官である「郡司」になることはなく、小町は京生まれである。つまり話しを面白くするためのフィクションである。

 小野小町については、江戸時代の国学者・本居内遠による「小野小町考」という詳細な考証がある。この書によると、これらの伝説は、「玉造小町壮衰書」という書物から作られたものであり、実際の小野小町とは無関係なこじつけ(仮託)である、と述べている。
 実はこれらの伝説は、全く小野小町とは違う「小町」の話が、小野小町の話として伝えられたのである。

 さて本居内遠によると、「玉造小町壮衰書」は、正確には「玉造小町子壮衰書 一首並序」という長い題名で、著者は空海とされている。真偽のほどは定かではないが、「空海全集」にも収録されているものであり、平安・鎌倉期の人々は当然、この書により小町を考えてきたと思われる。

 この玉造小町と小野小町は別人であったということを、岸本史明「二人の小町」(「王朝史の証言」所収)が明らかにしている。それによると芸人の娘であつた玉造小町が老いて零落した話と、なぞめいた美貌の歌人小野小町の話がすりかわって作られたのが「小町伝説」のようである。
 どちらにしてもこの伝説に登場する髑髏は、小町の怨念の象徴というよりは、美人にふられた男共の怨念の産物のように思われるのである。

 では「小町」とは、いったいどういう意味なのであろうか?国語辞典を見ると、「(小野小町が美人であったというところから)きわめて美しい娘。美人。美女。」と書いてある。つまり「小野小町」は固有名詞であるが、日本では時空を超えて「超美人」を指す普通名詞になってしまったといえる。しかも優れた歌人で頭が良いとなると普通の男共はコンプレックスをもって仰ぎ見るしかない。それはとうとう怨念に転化し、超美人を転落させる伝説を作り上げた。それどころかその伝説をいくつかの日常用語にまでして残している。そこまでゆくと、もてない男だけではなく、美人をうらやむ女達の怨念までが加わって、小町をいじめ始めたことが感じられる。

 例えば、女たちが裁縫の時に日ごろ使う針に、「まち針」というのがある。これは正確には「小町針」といい、この針には糸を通す穴がない。また「小町竹」というのがある。この竹は、稈がつまっていて、穴がない。小野小町は、伝説では好色といわれ、一方では肉体の不具を疑われ、死んだあとは野原に捨てられる。更に加えて頭蓋骨の目を竹が貫き、風が吹くたびに「穴目、穴目」と泣く。まさにこれでもか!これでもか!といういじめかたである。日本人はこれほど残酷であったのか!と嘆きたくなるほどの話である。
 千年以上の長きにわたり、亡くなってからも不当ないじめを受けてきたこの美女の名誉を回復してくれる作家が現れることを私は心待ちにしている。




 
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