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彷徨える国と人々
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  (2)「新左翼」の武装化(その1)

●学生運動の武装化の軌跡
 学生運動において、今では当たり前になっているゲバ棒に覆面、ヘルメット、投石用のレンガや石、火炎ビン、さらには、銃や爆弾が登場したのは何時頃からかを調べてみると、60年安保闘争の1年後あたりからのようである。
 60年安保のデモでは、かなり激しく行なわれた場合でも、学生たちはヘルメットもゲバ棒ももたず、一方的に機動隊の警棒で打たれて血を流していた。
 それがヘルメットで防御し、棍棒で武装するようになったのは、内ゲバと称する仲間同士の暴力から身を守ることが、直接的動機となって始まった。

 昭和36(1961)年7月8日に東京の両国公会堂で行なわれた全学連の第17回大会をマル学同が単独で開催した際、反対派から大会を守るために、角材によるゲバ棒が初めて登場したといわれる。
 これはその時の全学連書記長・清水丈夫のペン・ネームが「岡田新」であったことから、岡田式暴力的衝突を含む党派闘争」と呼ばれたという。ここでゲバ棒が、内ゲバの武器として登場したことは注目に値する。

 同月の2日には、早稲田大学で革マル派と中核派の内ゲバ騒動が起こった。ここで殴りこみを掛けてきた中核派などがヘルメットに身をかため、棍棒と石で攻撃してきた。これらのことから正確には分からないが、60年安保運動の翌年あたりから、ヘルメットにゲバ棒といったスタイルが登場したと見られるのである。

 内ゲバではなくノンセクト・ラジカルが、棍棒や石を武器にして公然と機動隊に立ち向かうようになったのは、「全共闘」(全学共闘会議)が学生運動の中心になった1960年代の中頃からと見られる。
 例えば昭和39(1964)年9月14日に、法政大学において学生が機動隊と衝突した時にそれは現われ、羽田事件における暴力闘争の序幕となった。

 60年安保闘争の中で、既成政党である社会党、共産党の主導権は大きく失われていった。そしてそれに代わって「新左翼」の勢力が、特に学生運動においては主流の座についた。しかし「新左翼」の組織は1960年代を通じて4分5裂しており、そのために組織間のゲバによる殺し合いが絶えない状態になり、結局、破滅化への道を辿った

 1960年代末葉の新左翼運動は、大きく次の3つの潮流に分かれていた。
 (1) 全国全共闘 ―全国反戦を媒体とする八派連合で、その中心は「中核派」
 (2) 共産同赤軍派や日共左派など、武装蜂起と世界革命を主張する「武闘派」
 (3) 八派の解体を路線とする「革マル派」

 ちなみに「全国全共闘」とは、全国的な各大学「全共闘」の連帯組織として東大、日大をはじめとする学園紛争が全国的な広がりを見せる中で、1969年9月5日に全国178大学の全共闘と中核派など八党派により結成された組織のことである。

 この3者中第2の「武闘派」の潮流が「赤軍」の流れである。それは1969年に東大、日大紛争を頂点とした全共闘運動が敗北していく過程で、1969年夏頃から最も過激な武力闘争を主張して登場してきた

●赤軍派の登場
 赤軍派は、東大紛争、日大紛争が警察力の導入により次々に解体されていく中で、共産同ブントにおける「関西(武闘路線)派」(*)が、「早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起」を主張して69年5月に赤軍を結成したことに始まる。
 この際のメンバーは、京大、同志社大、立命館大を中心とする活動家400人であった。

(*)ブント(Bund)とは、ドイツ語で「同盟」を意味する言葉であり、日本では「共産主義者同盟」(共産同)のことを指す。1958年12月10日に日本共産党・東大細胞のメンバーを中心にして、日本共産党の指導体制に反発する「新左翼」のブントが結成された.
 この組織が1960年4-6月にかけての安保闘争を全学連の主流派として指導したが、安保が成立した後の8月9日に、安保の総括をめぐり、「関東のブント」は「革命の通達派」、「プロレタリア通信派」、「戦旗派」の3つに分裂した
 これに対して「関西ブント」は、独自に60年安保の総括を行い、組織的統一を維持することに成功した。これがここでいうブント「関西派」であり、このブントの「関西派」が60年代末の「赤軍」に繋がっていく

 「赤軍派」の登場は、1969年1月の東大・安田講堂の攻防戦のあとから始まる。
 後に詳述するが、安田講堂の攻防戦の後、ブント「関西派」は1969年6月21日の「マル秘」通達により、秋の闘争において世界同時革命の展望を提起し、ここに始めて「赤軍」という言葉が登場した。

 8月26日、ブント「関西派」は、神奈川県城ヶ島のユースホステルに集まり、「共産同赤軍派」を独立させることを正式に決定した。
 議長は、京大の塩見孝也であり、これが赤軍派の原型となった。
 9月4日、日比谷音楽堂で行なわれた全国全共闘結成大会の前日、都内の葛飾公会堂において赤軍派は「大政治集会」を開いた後、上記、革マル派を除く全国の学生3万4千人が集まる全国全共闘結成大会に初めて公然と姿を現した。
 この赤軍派の赤ヘル集団が突然出現したことに、大会出席者は声を呑むほどの衝撃を受けたといわれる。

 赤軍派は、武器奪取、交番襲撃などの「大阪戦争」、「東京戦争」を9月末に展開し、10月21日の国際反戦デーには最初の鉄パイプ爆弾を登場させて、新宿駅襲撃、中野坂上のピース缶爆弾によるパトカー襲撃などを行なった。
 11月5日には首相官邸を襲撃する計画をたてており、山梨県大菩薩峠で軍事訓練を行なうために結集したところを警察側にキャッチされて、53人という大量の逮捕者を出し計画は未遂に終わった。

●武装闘争の画期となった東大紛争
 昭和44(1969)年1月は、東大紛争における最大の山場となった機動隊と全共闘による安田講堂の攻防戦で幕を開けた。
 大正14(1925)年に、財閥・安田善次郎の寄付により完成した鉄筋コンクリート造4階建てで、特徴的な時計台をもった安田講堂は、本来、「大日本帝国」におけるアカデミズムの権威を象徴する建築物であった。
 そのため、ここを占領した全共闘系の「新左翼」の学生を、8千5百人の機動隊が攻撃する大攻防戦は、全国民の注目を集めるものになった。

 1月18-19日の2日にわたる攻防戦は、NHKテレビを始め各テレビ局が48本の特別番組を組み、21時間にわたってニュースを流し続けた。そのときのNHKの視聴率は、なんと44.6%を記録したといわれる。
 19日の午後5時46分、安田講堂から流しつづけられた「時計台報送」が最後のアピールを全国の学生、市民、労働者に流し終わり、全員、ずぶ濡れになって逮捕された。これを見ていた国民の多くは、紛争の意味は分からなくても、自分の利益を越えて戦い、玉砕した若者に同情した。

 東大紛争は、いまでは殆ど忘れられているが、その発端はなんと自民党支持率が30%を超えて、東大の中でも最も保守的な学生が多い医学部から起こった。
 ちなみに当時の東大生全体の自民党支持率は18%程度である。
 東大紛争の発端は、1946年に連合軍の勧告により導入された無給のインターン(実地修練生)制度に対する改善要求から始まった。
 そしてそれが医学部生全員による学生スト、試験ボイコットに広がり、翌68年1月29日から医学部は無期限ストに突入していた。

 この東大医学部の紛争は、医学部教授連の対応の悪さから大きく拗れ、昭和43(1968)年6月15日には東大医学部全共闘と東京医科歯科大学の40人の学生が安田講堂にバリケードを作って、これを占拠するまでに発展した。
 この医学部系学生による安田講堂の占拠に対して、大河内総長が機動隊の出動を要請し、2日後に8,500人の機動隊が東大安田講堂に入り、占拠学生を排除した。
 このことから、医学部の紛争は全学的な東大紛争に拡大することになった

 6月17日に機動隊が導入されると、直ちに各学部の学生大会においてストが可決され、20日には安田講堂前広場で機動隊の導入に抗議する「全東大人集会」が開催された。これには6,000人の学生が参加し、駒場の教養学部の学生2,000人も30台のバスを連ねてこの集会に参加した。
 この全学的な東大紛争が始まった6月28日に、大河内総長は「大衆団交」という形式を認めなかったことから、安田講堂は7月2日に再びバリケードで占拠され、占拠した学生から「開放講堂」とか「安田砦」とか呼ばれて、大学紛争による解放区の象徴的存在となった

 占拠された安田講堂は、東大側の事実上の管理から離れて、いろいろな「反戦集会」、「労働者・市民の連帯集会」などに貸し出された。
 従って、この昭和44(1969)年1月19日における東大安田講堂の落城は、全国の学生運動の終焉を意味するほどの深刻な影響を大学紛争に与えた

 この段階で共産同ブントの「関東派」(=穏健派)は、東大闘争や日大闘争のような「大衆的ゲバルト」を積み重ねることにより、労働者や農民を巻き込んだ広範な革命勢力が醸成されると考えていた。
 これに対して同じ共産同ブントの「関西派」(=過激派)は、京大・塩見孝也の「革命の決め手は「大衆」ではなく「軍」である」とする「塩見理論」を背景にしており、関東、関西ブントの両派は、東大の安田講堂の落城を契機にして深刻な対立関係に立つことになった

 4月28日、「関東派」共産同ブントの「仏(きさらぎ)派」が沖縄闘争において、あくまでも「大衆闘争の勝利」を信じて全力で取り組み、再び機動隊に叩きのめされた。このことに怒った「関西派」は、6月21日、自派の活動家に武装蜂起の「マル秘」通達を送った。
 この通達の中で「今秋の闘争には世界同時革命―日本革命戦争の前段階として、爆弾、小銃、拳銃などの銃器を持って戦う武装蜂起を設定、その中から革命の展望を切り開くべきである」としている。
 ここで「新左翼」の中に、初めて「赤軍」という言葉が登場した。(角間隆「赤い雪―ドキュメント総括連合赤軍事件」226頁)

 この「マル秘」通達は、直ちに「関東派」に伝わり、関東派の議長・仏徳二は、7月2日に赤軍派を除名にする声明を出した。これにより関西、関東の両派の対立は激化し、7月5日には激しい内ゲバがおこり、それにより仏徳二が瀕死の重傷を負って警察に逮捕されるという事件が起こった。
 この際の激しい内ゲバの状況は、上掲「赤い雪」に詳述されている。この内ゲバにより、昭和44(1969)年8月26日、「関西派」は、神奈川県城ヶ島のユースホステルにおいて、「共産同赤軍派」を正式に発足させて、ここに赤軍派の原型が形作られた。

 このときの赤軍派の政治局員は、次の7人である。
     議長 塩見孝也(京都大学)
     局員 田宮高麿(大阪市立大学)―後によど号事件のリーダーとなる。
        上野勝輝(京都大学)
        堂山道生(同志社大学)
        高原浩之(京都大学)
        花園紀男(早稲田大学)
        八木健彦(京都大学)






 
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