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彷徨える国と人々
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  (2)よど号ハイジャック犯のその後

●よど号犯のその後
 よど号ハイジャック犯のリーダー・田宮高麿は、北朝鮮からさらにキューバへ飛び、その年の内にも筋金入りの「革命軍」をつれて、日本に帰国するつもりであった。
 しかしその目論見は北朝鮮への入国後、完全に外れてしまった。
 それだけでなく、彼らの北朝鮮における運命は、彼らが事前に計画していたものとはすっかり変わり、世界革命に参加するどころか、北朝鮮国家への奉仕者に作り変えられていった。

 もともと極度に民族主義的なチュチェ思想を主張する北朝鮮の指導者・金日成が、世界革命を標榜するトロツキスト集団であるハイジャック犯を受け入れるわけはなかった。ソ連にスターリンが生きている時代であれば、彼らは確実に全員処刑されたと思われる。
 しかし時代が少し遅れていたため、命は取り留めたものの、全員、招待所において北朝鮮のチュチェ思想の信奉者に作りかえられていった。

 もともと北朝鮮が、トロツキスト集団である日本の赤軍派の「世界革命の理想」に同調するはずはなかった。驚くべきことに、赤軍派は北朝鮮に対する調査もコンタクトも全く行なわないまま、国交のない北朝鮮へ向ったのである。
 そのため、その年に帰国するどころか、その後の彼らに関する動静は殆ど消されてしまい、それから30年を経てようやくその後のことが少しずつ分かり始めた。
 それを見ると、彼らを待ち受けた運命は驚くべきものであった。
 
 ハイジャック事件の当初、犯人たちの受け入れに対して北朝鮮側は寛容な姿勢を見せていた。しかしハイジャック機が、4月3日夜、山村次官1人を人質にして、ピョンヤン郊外の美林空港についてみると、彼らの態度は一変していた。
 その理由は、ハイジャック機が多数の日本人を拉致してピョンヤンに来ると思っていた北朝鮮側の期待が裏切られたことにあると、私は思う。

 今から考えて見ると、もしあのとき、多数の日本人の人質を乗せたまま、よど号が福岡から直接ピョンヤン入りを果たしていたとしたら、北朝鮮が工作員を使ってその後に行なった日本人拉致事件は大きく変わっていたと思われる。

 3月31日、福岡空港からピョンヤンに向った日航機には、108人の乗客が搭乗していた。北朝鮮はこれらの乗客は、すべて北朝鮮への不法侵入者として扱うことが出来た。彼らはこの乗客の内から、北朝鮮に役立つ人々を自由に選ぶことが出来るわけである。
 まさにこのハイジャック事件は、北朝鮮にとって鴨が葱を背負ってくるような事件であった。うまくいけばその後に特殊工作員を使って行なった、日本人に対する「拉致事件」が不要になるほどの事件であったわけである。

 ところがその北朝鮮が欲しかった日本人の人質たちは、すべて韓国でおろされてしまった。その期待が裏切られた事が、よど号が山村政務次官1人を乗せて北朝鮮に降りた時、彼らの態度が一変していた理由であると私は思う。

 しかし、よど号のハイジャック犯が北朝鮮を目指したということは、朝鮮民主主義人民共和国が、社会主義の「シャングリラ」(理想郷)であることを世界に宣伝する機会として利用できる、と金日成は思い直した。
 その様な事情から、北朝鮮に渡った赤軍派は世界革命の拠点作りはできなかったが、北朝鮮に客人として迎えられた。そして招待所においてチュチェ思想で洗脳された上で、日本人の拉致をはじめとする北朝鮮側の手先に利用されることになった。

 よど号亡命者のその後については、全共闘運動を経験したジャーナリストの高沢皓司氏が、北朝鮮に何度も渡ってよど号犯と話し合い、彼らのその後の活動を記述した力作「宿命」(新潮社、1998)に詳述されている。
 そこで同書によって彼らの足跡の概略を追いかけてみよう。

 よど号亡命者たちが、当初、北朝鮮政府に対して求めたものは、次のようなものであった。
    (1) 軍事訓練を受ける事
    (2) 今年中に帰国できる条件を整えてもらうこと。
    (3) 経済学、哲学、対日武装闘争の経験の講義を受ける事、など。
 多岐にわたっていたが、その殆どは北朝鮮側から無視され、当初、受け入れられたのは市中の散策と体力作りくらいであった。
 そして全員、市民から隔絶された招待所に軟禁され、チュチェ思想の講義と学習を一方的に受けさせられた。彼らが第一に求めた軍事訓練などは、全く受ける事は出来なかった。

 しかし彼らは、2年後の1972年元旦、金日成首相にあてて手紙を書いている。そこで彼らは寛大で革命的な「偉大なる首領」の金日成に対して、チュチェ思想をより深い内容で理解できるようになった事に、心からなる感謝を表明した。
 彼らは、原典主義により「金日成著作集」5巻を読破し、1労作ごとに体系化を行なった。そして要旨を書き抜き、その真髄や教訓について討論した。
 招待所の消灯は午後11時であったが、午前2時まで勉強するグループもあったという。(高沢皓司「前掲書」104頁)

 このよど号犯の手紙は、金日成を非常に喜ばせた。さらに、中東における日本赤軍の活躍が、彼らの取り扱いを一変させることになった。
 彼らは北朝鮮にとっての貴重な「金の卵」となり、72年4月27日に、金日成はNHK、朝日新聞、共同通信の記者との会見において、彼らのことを話題に取り上げた。

●北朝鮮に利用されたよど号犯
 1972年5月26日、イスラエルのテル・アビブ空港において、日本赤軍のコマンド3人が自動小銃と手榴弾で乗客たちを攻撃する事件が発生した。この事件では、死者25人、負傷者72人(内、25人は重体)を出し、コマンドも奥平剛士と安田安之が射殺されて、岡本公三が逮捕された。
 逮捕された岡本公三は、よど号犯の岡本武の実弟である。この事件に金日成は非常に関心をもったといわれる。そして同じ日本赤軍の田宮高麿に対して、「日本のアラブ赤軍を北朝鮮の労働党工作部に取り込め!」と指令を出した

 金日成は、それと同じ事件をソウルの金浦空港で起こすことを考えていたと思われ、それに日本赤軍を使いたいと考えた。
 田宮高麿は、この将軍さまのアイデアを実現させるために、いくつも手紙を書いて実行を図ろうとしたが、結果的にはこの計画は実現できなかった。
 しかしそれを契機にして、よど号犯を労働党工作部の特殊工作に利用する試みが始まった。

 まずこの計画が発端となり、よど号犯たちに日本人妻をあてがい、北朝鮮に定住させ、共和国のために奉仕させようという奇妙な計画が持ち上がった
 その結果、ヨーロッパを旅行中の多数の日本人女性が北朝鮮に拉致され、よど号犯の妻にされる事件が頻発するようになった。
 そのことによって、彼らの住所は「招待所」から「日本人革命村」に成長する
 
 よど号犯の妻たちと、彼らが結婚して家庭を持った年を、図表-1にあげる。この表を見ると、その年が1976-77年に集中していることが分かるであろう。

図表-1 よど号犯の妻たち
よど号犯の名前 事件時年齢 妻の名前 結婚年月 妻の経歴
田宮高麿 27歳 森順子 77.5.1 強制連行で日本に行った朝鮮人の父と日本人の母の子として生まれた。父の遺骨を故国に返すべく来鮮
田中義三 22歳 水谷協子 77.5.5 愛知大学在学中から北朝鮮にあこがれ来鮮
柴田泰弘 16歳 八尾 恵 77.5.4 いろいろな仕事を転々として、渡航経歴も非常に多い。キム・ヨーチルに声を掛けられ、日本に潜入して佐藤恵子という名前で「夢見波」という店を開いているところを1988年5月、逮捕された。
小西隆裕 25歳 福井タカ子 76 東大病院の看護婦で東大紛争の頃知り合う。75年10月、自分の意思で出国し北朝鮮へ渡航。
吉田金太郎 20歳      
若林盛亮 23歳 黒田佐喜子 76 専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になり、ヨーロッパ経由で北朝鮮に渡航。
岡本武 24歳 福留貴美子 76 四国の高校を出て、東京の警備会社の警備員になるが、保母への転職を考える。モンゴル旅行に憧れ失踪。北朝鮮に拉致されたと見られる。岡本と共に死亡?土砂崩れというが不明。
赤木士郎 23歳 金子恵美子 77 専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になる。ヨーロッパ経由で渡航。
安部公博 22歳 魚本民子 76 高校の頃から学生運動に従事。プロレタリア学生同盟に入り、共労党の指示で来鮮。ピョンヤンで恋愛結婚。

 この頃になってよど号犯たちは、ようやく朝鮮労働党からある程度の信用を獲得することに成功していた。そこで彼らは、北朝鮮の工作員としての軍事訓練やスパイ活動の訓練も受けられるようになり、彼らの中から特殊工作員として海外において活躍する者も出始めた。

 ▲粛清された?岡本武
 まずテルアビブ空港における日本赤軍の岡本公三が、よど号犯の岡本武の実弟であることから、1980年代の初めに、岡本武の日本潜入工作が計画されたようである。既に、岡本武は、1970年代の末にウィーンにおいて反核運動を組織することに成功しており、更に、カナダに活動を広げようとしていた。

 その段階で、岡本武の日本潜入工作の計画が持ち上がった。ところが1980年代の初頭において、田宮をはじめとするよど号グループと岡本武は、革命路線をめぐり思想的、路線的に対立し、それが表面化してきていた。

 このような段階で、岡本による日本潜入工作の計画は不可能であった。そこでこの計画は中止になりピョンヤンに戻り、仲間から外されて招待所に戻された。
 岡本武は、1980年代末に漁船を奪取して北朝鮮から脱出を図ったものの捉えられて、収容所に入れられた。その後の岡本の消息は全く途絶えており、妻の金子恵美子ともども、死亡もしくは粛清された?と思われている。

 ▲ニセ・ドルで逮捕され、日本で死去した田中義三
 よど号犯の中でも最も行動的であった田中義三は、1996年3月、カンボジアにおいて偽造米ドルのロンダリング容疑で逮捕された。
 彼はそのとき、北朝鮮大使館の公用車に乗っており、大使館が発行した旅券では北朝鮮の外交官「キム・イルス」となっていた。
 この事件は、北朝鮮外交官とよど号犯によるニセドル疑惑として国際社会に報道された。

 彼の著書によると、田中義三がカンボジアへ行った目的は、日本に帰国するための拠点づくりにあり、1994年にカンボジアに入国した。カンボジアには、日本に帰国する方途の条件があった。しかしそこをインターポール(国際刑事機構)に察知され脱出したが、3月24日にカンボジアとベトナムの国境で逮捕された。
 そのときカンボジアにおいて田中が拠点とした児玉国際貿易の事務所からニセドル札が見つかり、そのうちの1枚からは田中の指紋が見つかったというのが逮捕の理由であった。

 その後、田中の身柄はタイ国のチョンブリ刑務所に移されたが、その間の話は、よど号事件の場合と同様に、日本、アメリカ、北朝鮮、タイ、カンボジアの国際的かつ外交的なカケヒキが錯綜していて、その実態は極めて分かりにくい。
 大体、田中は、チョンブリ刑務所に1年半もいた段階で、身分、氏名も明らかにされず、「あなたは今から望むなら韓国の人間にも、ハヤシなる人物にもだれにでもなれる」といわれていたという。(田中義三「前掲書」68頁)

 田中義三は、タイにおいて米財務省のシークレット・サービスの取調べを受けた上で、起訴され裁判にかけられた。このニセ札事件の裁判は、1999年6月に「完全無罪」の判決が下りた。しかしその裁判の経過は、彼の著書をみても極めて分かりにくい。日、米、朝鮮、タイの間の国際的陰謀とカケヒキが、この単純な事件を殆ど一般人には理解できないほど複雑な話にしている。

 翌2000年5月、日本政府からの強制送還の要求に対して田中は自主帰国を表明し、6月28日、日本に帰国。ハイジャック容疑で逮捕・起訴された。
 2002年2月、東京地裁の判決は懲役12年だった。高裁に上告したが、2003年4月30日、上告が取り下げられて刑が確定した。
 熊本刑務所に服役したが、ガンのため、大阪医療刑務所に移され、さらに、千葉の病院に移され、2007年1月1日に亡くなった。

 ▲柴田泰弘はなんと日本国内で逮捕された 
 1988年5月、兵庫県警は東京新宿区三栄町のアパートにいた「中尾晃」という男を、偽造旅券の疑いで逮捕した。そしてその身柄はすぐに神戸に移された。
 この男の指紋を照合してみると、なんとその男は、よど号ハイジャック事件の柴田泰弘であることが分かり、公安関係者は衝撃を受けた。
 1988年は、丁度、ソウル・オリンピックの直前の時期であり、公安やマスコミは、柴田の入国は、オリンピック開催の妨害工作ではないかと考えた。
 しかしそれは「よど号犯」たちの第2次日本潜入計画であり、柴田の逮捕によってその後の計画は挫折した。柴田は、偽造旅券による旅券法違反で、懲役5年の刑に処せられた。

 ▲よど号犯たちの最大のタブー? 吉田金太郎
 吉田金太郎は、よど号犯たちの中で、柴田泰弘の次に若く、小柄で色白の好男子であった。彼は1985年9月4日、午前5時12分、急性肝萎縮症のためピョンヤン市内の病院で亡くなったとされている。
 そして翌5日にピョンヤンで火葬に付され、「よど号」の仲間たちにより葬儀が営まれた。彼の病状が深刻になった85年の8月末に、最後の面会にピョンヤンまでこられないかという手紙が、京都市祇園の彼の実家に届いた。

 吉田金太郎の遺族は、面倒な手続きをへて、10月に北京からピョンヤン入りを果たした。そして翌日、ホテルを訪ねてきたよど号メンバーから木箱に入った金太郎の遺骨と金日成から贈られたスイス製の腕時計と死亡診断書を受け取った。手紙はなかった。
 これで吉田金太郎の死は、1件落着のはずであるが、「宿命」の著者である高沢皓司氏は、そこからいくつかのフシギなことに気がついた。
 
 1993年の初冬、高沢氏はピョンヤン郊外において、よど号の妻たち全員のインタビューをした。そこで高沢氏は彼女たちに同じ質問を繰り返したが、誰からも吉田金太郎の名は一度も出ず、まるで彼は存在しない人のようであったという。
 図表-1から明らかなように、彼女たちは、すべて1976-77年に結婚している。そうだとすれば、85年までには8年の歳月があり、彼女たちが吉田金太郎について全く語らないというのは、いかにもフシギな事である。
 そして図表-1において、最も若い柴田泰弘にも妻が決まったのに、4歳年上の吉田金太郎1人だけは妻の名がないのもふしぎである。

 よど号犯たちと度重なる交流を持ってきた高沢氏は、遺族との対応の中で吉田金太郎のことが、彼らの最大のタブーであると感じるようになったという。
 そこで吉田金太郎が、いつ「革命村」から姿を消したかを調べて見ると、存在が確認できるのはなんと1973年までであることが分かった。

 1976年11月に小田実との会見に「吉田金太郎」が出席したことになっている。しかしそのときには、写真が撮られていないので彼の存在が確認できない。
 1976年は、よど号の全員の妻帯が既に決定していた年であり、吉田金太郎の妻だけが決定していて消えたのか、このとき既に吉田金太郎がいなくなっていたかのどちらかになる。

 吉田金太郎の実家は、神戸で有名な吉田金太郎商店である。しかしその実家は、その後に没落して、彼の父は京都の祇園に小さな串カツ店を開いていた。その意味で、彼自身は、「労働者」ではあるが、本来の出身は大金融業の家の御曹司である。このことは北朝鮮において、どのように評価されたのであろうか?
 
 儒教国の北朝鮮では「出身成分」分類が、大きく3つに区分されているという。
 第1は、金日成思想に忠実な忠誠心に満ちた核心階層。
 第2は、監視対象、動揺分子。
 第3は、特別監視対象。敵対分子で最下層の者、である。
 高沢氏は、吉田金太郎は、第2もしくは第3の階層に属しており、「総括」の場で彼は自分の出自を問われて、答えることが出来なかったのではないかと考える。
 そのために、「村」から消されたと推理されており、彼が死亡したのは、1985年ではなく、それより10年前の75-76年にさかのぼると思われている。

 ▲そして田宮高麿も急死した!
 最後に、よど号のリーダーの田宮高麿も急死している。1995年11月30日のことであった。死因は、「心臓麻痺」とされている。
 つまり、若かったハイジャック犯9名中、殆ど半数の4名が亡くなるという異常な死者数をみても、北朝鮮における彼らの生活がいかに過酷であったかが分かる。

 ハイジャック犯たちに北朝鮮で家庭を持たせ、北朝鮮を拠点とした北朝鮮赤軍?として日本に潜入させ利用するという金日成の構想は、彼らの半数が死んだことにより失敗に終わった。






 
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