アラキ ラボ
日本人の思想とこころ
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  7  8  9  >> 
  前ページ次ページ
  (4)昭和の「四郎左衛門」―永田鉄山刺殺事件

 森鴎外が「津下四郎左衛門」を書いたのは、大正のはじめのことである。ところが大正から昭和かけて、鴎外が描いた幕末の「愛国者」似た人々が再び姿を現した。そして彼らは「大正維新」「昭和維新」の名のもとに、次々に政府要人を襲撃するテロ事件を頻発させるようになった。

 それにはそれなりの理由があった。このWebの「昭和のカタストロフ」で詳しく書いたように、大正から昭和の時代には、明治以来、先送りされてきたいろいろな社会的矛盾が一斉に噴出してきていた。それは第1次大戦後の深刻な経済恐慌から始まり、「昭和金融恐慌」の中で、「平成金融恐慌」を更に上回る激しさで日本全土に広がった。

 農村の出身者が多かった軍の青年将校たちは、貧しい農村やそこから都市に売られていく娘たちを見て、これら失政の原因が腐敗した政界、財界、官界にあると考えたのは当然のことであった。そこで彼らは、天皇と国民の間に存在する「君側の奸」を取り除き、再び明治維新後のような天皇親政を実現することを計画した。

 昭和に入るとその種の事件が頻発し始めた。昭和5年の浜口首相狙撃、6年の未遂に終わった3月事件、7年の井上準之助前蔵相、三井の総帥・団琢磨を暗殺した「血盟団事件」、海軍青年将校による「5.15事件」、8年の神兵隊事件、9年の血盟団による西園寺公暗殺計画や青年将校によるクーデター計画(士官学校事件)など、毎年テロやその未遂事件がおこるようになった。

 更に10年代に入ると、陸軍の青年将校による「昭和維新」の活動が激化した。そして「昭和維新」の活動は、1936(昭和11)年の「2.26事件」によりその頂点を迎える。ここでは、2.26事件の引き金になった相沢事件をまず取り上げる。

●相沢事件―永田軍務局長刺殺
 1935(昭和10)年8月12日午前9時40分、三宅坂の陸軍省において軍務局長・永田鉄山少将(死後、中将に昇進)が、東京憲兵隊長・新見英夫大佐と話し中に現役の歩兵中佐・相沢三郎に右胸を斬られ、やがて死亡する衝撃的な事件が起こった。

 事件の犯人の陸軍歩兵中佐・相沢三郎は、1889(明治22)年、福島県で仙台藩士の家に生まれ、仙台陸軍幼年学校第7期、陸軍士官学校第22期で卒業。福山の歩兵第41連隊から台湾歩兵第1連隊付きに転じ、台北高等商業学校の軍事教官として赴任の途中に、この刺殺事件を起こした。

 殺害された陸軍少将・永田鉄山は、1884(明治17)年長野県に生まれ、陸軍中央幼年学校予科から軍事官僚の本流を進み、陸軍士官学校第16期を首席で卒業。陸軍大学校を次席で卒業して、恩賜の軍刀を授与された。
 その後の永田の経歴は、陸大の「軍刀組」として華々しく、ドイツ留学後、ヨーロッパで駐在武官を経験した後、陸軍省内部において第1次世界大戦後の国家総力戦体制の準備を推進した。軍部内の国家革新運動にも参加しており、陸軍内の派閥における「統制派」の首領と目されるようになっていた。

 この間、軍人の本職としての「隊付き」という経験は殆どなく、軍事課長、参謀本部第2部長をへて1934(昭和9)年、軍務局長に就任という中央軍事官僚の道をひたすら歩んできた人物である

 陸軍内部の派閥闘争は、昭和のはじめから激化しており、その一つが「皇統派」と「統制派」の争いであった。
 「皇道派」とは、1931(昭和6)年の暮れに陸軍大臣が宇垣一成から荒木貞夫に代わった後、荒木陸相がそれまで陸軍の最大主流であった宇垣派を陸軍の要職から追い払い、自派中心の人事を行うことにより形成した派閥である。
 荒木陸相は真崎甚三郎を参謀次長、柳川平助を陸軍次官にするなど派閥人事を行って、陸軍中枢を自派で固めた。そして荒木・真崎の精神主義は、クーデターなどの直接行動による国家改造を目指す青年将校には共感を得ていた。

 一方の「統制派」は、1931(昭和6)年10月に橋本欽五郎ら桜会の中堅将校が計画して未遂に終わった「10月事件」以降、そのグループの流れを引く参謀本部・陸軍省中堅将校らが、武力による国家改造計画を放棄し、合法的手段による覇権の確立をめざして新官僚と結び、政、財界に接近して作り上げた派閥のことである。
 彼らは、皇道派幹部の派閥人事や青年将校によるクーデター計画は軍の秩序を乱すと攻撃し、軍の統制を主張したことから統制派と呼ばれた。

 相沢事件の直接的な原因は、1934(昭和9)年1月26日に陸軍大臣荒木貞夫が病気で辞任した後を受けて、林銑十郎大将が陸軍大臣になったことに始まる。林銑十郎は満州事変が起こったときの朝鮮総督であり、朝鮮軍を独断で満州へ越境させたことから「越境将軍」と呼ばれた人物である。その後に総理大臣にまでなるものの、実は小胆、無能で「軍政的手腕は歴代の陸相中最下等」(松下芳男「陸海軍騒動史」321頁)といわれるほどの人物である。

 この無能な林銑十郎陸軍大臣が、歩兵第1旅団長であった優秀な永田鉄山少将を軍務局長に起用したことから問題が起こった。統制派の巨頭である軍務局長・永田鉄山の勢力は、皇道派の柳川兵助陸軍次官を超えて全陸軍に号令するまで強力になった。
 しかも永田は、皇道派の一掃に乗り出した。教育総監・真崎甚三郎は軍事参議官に転出させられ、統制派の渡辺錠太郎が教育総監になった。

 この人事に強い異議をもった相沢中佐は、7月19日に一度、永田少将を訪問していた。このときに相沢中佐は、林陸相の処置に誤りが多いのは軍務局長の責任であるとして、永田少将に辞職を勧告したといわれる。しかしその日はそのまま帰営した。
 この後、相沢中佐の上司であった連隊長・樋口大佐がこの相沢の行動を警戒して、相沢の台湾赴任を申請したといわれる。

 9月1日の異動でこの申請が認められ、同時に樋口大佐自身もハルピン第三師団参謀長へ転任することになった。相沢中佐は、台湾へ赴任の途中で宇治山田に1泊。折しも日本を襲っていた暴風雨の中を伊勢神宮に参拝し、8月11日夜、東京に着いた。
 東京に着くとまっすぐ明治神宮に向かい、台風の余波の中を参拝した。

 その夜、相沢中佐は親交のある西田税の家に泊まり、そこで大蔵大尉と歓談した。西田、大蔵共にその後の2.26事件の中心人物である。

 そのとき相沢中佐は、大蔵大尉に「ときに大蔵さん、いま日本で一番悪い奴は誰ですか?」と聞いた。大蔵が「永田鉄山ですよ」というと、「やっぱりそうでしょうなあ」と相沢はうなずいたという。(児島襄「天皇」U、244頁)まさに昭和の「四郎左衛門」そのものである。

 事件後に相沢中佐は、「第一師団軍法会議」において、陸軍省、参謀本部の首脳部の中に政治的野心や私心を有して、政党財閥その他官僚と通じるものがあること、また一般将校の大部分にも栄達を第一とする風潮があることを指摘し、その元凶こそが永田少将であり、その故に少将を殺害した、と述べている。

 ところが永田少将自身は刺殺される前日の8月11日に、相沢中佐と全く同じ趣旨の「意見具申書」を林陸相あてに執筆していた。しかし相沢中佐は、そのことを知ったとしても、おそらく「一点の私心なく、一意、御国を思う心」でもって永田少将の暗殺を実行したであろう。

 しかし相沢中佐は処刑される直前に、永田少将を暗殺した誤りに気づいた。そして真の問題はその背景にある軍の組織にあるとして、3月事件関係者の告訴に踏み切っている。しかしそのときは既に遅かった。ここに相沢中佐の「愛国」の悲劇があった。

 1935(昭和10)年8月12日午前9時25分、相沢中佐が陸軍省正門を入った。その心には一点の迷いも、やましさもなかった。そのため永田少将を刺殺したあとも、山岡中将の部屋へ行き、「ただいま永田閣下に天誅をお加えしてまいりました」と語り、更に、これから「台湾へ赴任します」と応えている。四郎左衛門と同様にあくまでも純粋なのである。相沢中佐は、その後、高等官食堂前で軍事調査部長・山下奉文少将に会う。「閣下、相沢です。台湾に赴任します」、「そうか、それはごくろう・・・」(児島襄「天皇」U、358頁)。驚くべき「愛国無罪」であった!

 相沢事件の公判は2.26事件のため中断されて遅れたが、翌年5月7日、用兵器上官暴行、殺人傷害で死刑の判決が出た。相沢は8日に上告したが、6月30日にその上告は棄却され、7月3日午前5時3分、相沢中佐の死刑が執行された。

 相沢は、5月31日に宇垣大将以下、「三月事件」の関係者全員を告発した。「三月事件」とは、1931(昭和6)年3月、議会の開会中に軍部が武力による支配権を握ろうと計画した事件である。これには当時の陸軍次官杉山元、軍務局長小磯国昭、軍事課長永田鉄山、など統制派の将官も多く関わり、宇垣大将による軍事政権を目指したものである。相沢はこの告発により、皇軍の真面目を挽回するための軍首脳の総ざんげを求めていた。この告発は、相沢のほかからも出されたが、「三月事件等を告発すれば軍は崩壊する」と弁護人からとめられ、相沢は処刑され、その後はうやむやになった。(沢地久枝「雪はよごれていた」211頁)

 相沢公判の特別弁護人になった満井佐吉中佐による弁論は、「愛国無罪」の熱狂的なものであった。永田鉄山は、陸軍に害をなす悪魔であり、相沢はその悪魔を斬った愛国の志士であり、国民を救うものと主張した。永田の悪口が余りにひどいので、永田の同期生が法廷において永田の弁明をしたほどである。
 相沢裁判は遅々として進まず、2月25日までに10回開廷していたが、結審の見通しが立たなかった。そして2月26日の雪の朝を迎えた。

 この2.26事件が相沢裁判を一変させた。裁判長佐藤少将は2.26事件のため引責待命になり、騎兵第旅団長内藤正一が新しく裁判長になり、判士も一部交代した。特別弁護人であった参謀本部満井中佐は、2.26事件の反乱者を利する罪により禁錮3年となった。愛国の志士・相沢中佐は一転して国法を無視した殺人犯に転落した。
 相沢は、最後に事件は真崎大将にそそのかされた!といって、永田鉄山の暗殺を後悔していたといわれる。相沢中佐の「愛国」とは一体なにであったのか?




 
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  7  8  9  >> 
  前ページ次ページ