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日本人の思想とこころ
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  (2)文久3年以降の長州 ―攘夷思想の破綻と転換

●文久3年 ―攘夷から開国へ!
 文久3年(1863)は、幕府がなし崩しで進めてきた「開国」と、その一方で朝廷が一貫して幕府に要請してきた「攘夷」の相反する外交政策が、もはやそのままでは先へ進めなくなった年である。
 追い詰められた幕府は、将軍を二百数十年ぶりで上京させて、朝廷と外交政策のすり合わせを行い、その結果、幕府は5月10日を期して「攘夷」開始の実行宣言をすることを余儀なくされた

 この幕府をさらに追い詰めるために、長州藩は5月10日を期して米英蘭仏4ケ国の艦隊を砲撃し、その結果は惨憺たる敗北を喫することになった。
 同様に、薩摩藩も7月には薩英戦争に敗北し、薩摩・長州は「攘夷」が不可能であることを、身をもって知ることになった
 その結果、尊王―敬幕―攘夷という従来の路線が、尊王―倒幕―開国へと大転換する始まりの年が、この文久3年である。
 この大転換の過程を、まず長州藩から見ていくことにする。

 長州の急進派を代表する松下村塾における「攘夷」は、「開国的攘夷」という矛盾を孕んだフシギな理論であることは既に述べた。
 そこでの攘夷は、幕府が行ってきた屈辱的な「開国」を否定するものであり、長州藩の「攘夷」の裏には「反幕」もしくは「倒幕」という思想が隠されていた。
 しかしその矛盾した思想を実際の行動に移す場合には、どこかでその矛盾が表面化せざるをえない。長州藩の場合に、この矛盾が表面化し、政策の大転換が行なわれたのが、文久3年のことである。

 まず、文久3年に起こったことを簡単に図表-1に整理してみる。

図表-1 尊王攘夷の転換点としての文久3年
年号 月日 事項
文久2年 7月6日 長州藩では、長井雅楽の航海遠略策を棄てて尊王攘夷に外交政策を変える。
文久3年 3月4日 将軍・家茂が二百数十年ぶりで上京
  3月11日 孝明天皇、賀茂神社に行幸、攘夷祈願。
  4月11日 孝明天皇、石清水神社に行幸、攘夷祈願
  4月20日 幕府、5月10日を攘夷期限と上奏
  5月10日- 長州藩、下関で米、仏、蘭艦を砲撃
  5月12日 井上馨、伊藤俊介ら、イギリス留学に出発
  6月7日 高杉晋作、「奇兵隊」を結成
  6月10日 仏、英、米、蘭4国、長州攻撃を決議。
  7月2日 薩摩藩、来航の英艦隊と交戦(薩英戦争)
  7月20日 薩摩藩、薩英戦争に敗れて開国に転換
  8月13日 攘夷、親征の詔勅出る。
  8月18日 薩摩と会津、幕府と連合して公武合体派のクーデターを起こし、長州系尊王攘夷派を追放する、
  9月14日 幕府、横浜鎖港を米蘭に提議。
  12月29日 鎖港談判のため外国奉行・池田長発ら、欧州へ出発
  12月30日 徳川慶喜・松平容保・松平慶永・山内豊信・伊達宗城に朝議参予を命じる。元治元年、島津久光を任命。

●長州藩の外交政策の転換 ―公武合体・開国から尊王・攘夷へ!
 上表の冒頭に挙げた長州藩の外交政策の大転換から話を始める。
 長州藩では村田清風、周布政之助につながる急進派と、坪井九右衛門、椋梨藤太などの俗論派が、尊王攘夷路線をめぐって対立を続けてきていた。
 この対立の折衷案として登場してきたのが、長井雅楽による「航海遠略策」である。

 安政5(1858)年、長井雅楽は、長州藩の直目付になった。万延元年(1860)3月に井伊大老が暗殺されると、それまで幕府がすすめてきた開国政策はその推進者を失い、安政の大獄の反動もあって、一挙に尊王攘夷論が沸騰して国内は騒然たる雰囲気に包まれた。このとき中央政局の外交政策として長州藩が建白したのが、長井雅楽の「航海遠略策」である。この長井雅楽による建白は論理が明快であることから、長州藩主・毛利敬親がとびつき、早速、朝廷・幕府双方に提示して行動をおこした。

 長井雅楽の「航海遠略策」は、4500字にのぼる徹底した現実論に立脚した外交政策である。そこでは、幕府が勅許をえないで結んだ条約であっても、それを一方的に破棄することは、最早不可能であるとしている。
 朝廷は幕府が勝手に条約を締結して国政をほしいままにしているというが、それはあくまでも日本の内政の問題であり、天朝不納得の理由で国際条約を破れば、外国との間で戦争になる事は必定である。
  
 そもそもこの300年の間、国内政治は幕府に一任されてきており、外国側としては幕府をこの国の政府と考えるのは当然なことである。したがって破約攘夷を行うことは、無策な戦争を起こすことになり、絶対にしてはならないとしている。
 この観点から長井雅楽は、公武合体―開国論を説いた。この長井の開国論には藩主・毛利敬親、重臣たちや周布政之助も賛成して、正親町三条実愛を通じて、孝明天皇に披見されるところとなった。

 久坂玄瑞をはじめとする松下村塾グループも、最初は長井案に賛成していた。つまりこの長井案は、基本的には松蔭の開国攘夷論に類似しているのである。
 しかし薩摩の島津久光が、兵1千を率いて上京すると聞くと、薩摩に倒幕の主導権をとられるのを恐れる長州藩は、急にこの案に反対して「攘夷」に転向した
 そのため長州藩は、「倒幕」を裏に隠した強烈な「攘夷」運動を、文久3年から推し進めるようになった。そして攘夷期限の5月10日には、さらに幕府を追い詰めるために、下関において米、仏、蘭艦に対する砲撃に踏み切った。

 そのため6月になると、西欧4カ国は長州攻撃を決議し、さらに8月には幕府が会津、薩摩と手を結んだ公武合体派のクーデターを行ない、長州の尊王攘夷派は京都から追放されることになる。
 このように文久3(1863)年に、長州藩は最大の危機的状態に追い込まれることになった。さらに翌年には、幕府による第1次長州征伐が実施されることになり、長州藩はこの文久3年以降、諸藩に先駆けて否応なしに倒幕路線に転換せざるを得なくなっていった

●第1次長州征伐と長州内戦
 幕末の長州藩の2大愚挙といわれるのが、攘夷戦争と禁門の変である。
 「航海遠略策」の発案者である長井雅楽が、その責任を取って切腹させられたのは、文久3(1863)年2月のことである。ここから長州藩は、公武合体論を放棄して、朝廷の意向に沿った攘夷運動に180度の方向転換を行なった。
 そこで早速、5月11日にアメリカ商船、23日にフランス軍艦、26日にオランダ軍艦に砲撃を加えた。どの国の船も予期しなかった攻撃に驚いて遁走したため、長州藩はこの攘夷運動の「大勝利」を朝廷に報告して天皇から褒められた。

 このような攘夷の名による外国船に対する無差別攻撃の開始を憂慮した幕府は、長州藩に詰問使を送ったが、その使者は奇兵隊に殺害された。
 このような状況の中、文久3(1863)年8月18日に、薩摩と会津による公武合体派によるクーデターが発生して、攘夷派の長州藩は京都から追い出されるという思わぬ事態が起こった。

 翌元治元(1864)年6月5日夜、この事態に対処するために長州藩の志士たちが池田屋で協議していたところを新撰組が襲撃し、志士側に大きな被害が出た。
 有名な「池田屋の変」である。この事件を受けて、京都周辺で京への進攻を伺っていた長州兵と幕府軍が京都の市内において激戦になったのが、「禁門の変」(またの名を「蛤御門の変」ともいう)である。

 ちょうどこの年が「甲子」の年にあたることから、それは「元治甲子の変」とも呼ばれている。この戦争は、形式的には長州藩が宮廷に発砲して京の町を焦土と化したわけであり、それは幕府に長州を懲罰にする絶好の口実を与えることになった。
 元治元(1864)年7月、朝議において長州藩の追討が決定し、征長総督を尾張藩主・徳川慶勝、総督参謀を薩摩の西郷隆盛として、中国・四国・九州21藩に出兵命令が出されて、11月18日がその総攻撃の開始と決定した。

 一方この頃、長州藩の内部では、佐幕保守の「俗論」派と、後に倒幕派に転向する「正義」派(=尊王攘夷派)に分裂していた。
 この前者は椋梨藤太をリーダーとして萩の門閥の家柄の人々が中心をなしており、後者は高杉晋作の奇兵隊により代表される勢力であった。

 8.18の政変以後、俗論派がわずかなあいだ政権をとり、奇兵隊の解散論が起こったことがあるが、間もなく正義派が藩権力を掌握した。
 しかし今度の禁門の変で再び正義派は苦境に立たされ、俗論派の勢力が強くなった。加えて8月5日には4国連合艦隊の攻撃があり、長州藩は非常な苦境に立たされることになった。
 9月末に山口で藩主を中心にして藩の方針決定の会議が行なわれたが、俗論派の「純一恭順論」と正義派の「武備恭順論」は平行線をたどり、藩論は定まらなかった。

 この時、イギリス留学を打ち切り帰郷していた正義派の井上馨が、俗論派に襲撃されて瀕死の重傷を負った。俗論派は政権を握り、禁門の変の責任者を処罰して、幕府に降伏しようとした。それは西郷の「戦わずして勝つ」最上の戦略であった。
 征長総督参謀の西郷隆盛は、11月3日、長州藩の支藩である岩国藩主・吉川経幹と連絡をとり、禁門の変の責任者である三家老の処罰をはじめとする処分を決めた。

 幕府軍の総攻撃は18日と決められており、一戦も交えず休戦することに不満が残ったが、第1次長州征伐はこのような西郷による腹芸で終了した
 長州藩内では、その結果として俗論派が勢力を持つようになり、12月には奇兵隊以下の諸隊には解散命令が出された。
 
 このような長州藩の内政の動きに真向から反対し、元治元年12月中旬から慶応元年にかけて、高杉晋作が奇兵隊など諸隊の軍事力を背景に大反乱を起こした。
 慶応元(1865)年初頭の長州藩における俗論派と正義派の内戦は、正義派の圧倒的な勝利に終わった。その結果、長州藩はそれまでの尊王―敬幕から、明確に尊王―倒幕への方向を歩むことになった。

●倒幕を目指す長州藩 
 慶応元年の長州藩内の俗論派と正義派の内戦により、藩庁は再び松下村塾出身者からなる正義派によって占められることになった。
 そしてこのときから、尊王―敬幕から離れて尊王―倒幕の路線が明確になってきた。この段階で同じ尊王派の薩摩藩は、まだ倒幕までは考えていなかったが、薩英戦争を契機にして尊王―開国の路線に移行しようとしていた。

 このような状況のなかで、慶応2(1866)年5月、アロー号事件のとき広東領事を務め、清国との戦争の火付け役を務めたパークスが、日本公使として赴任してきた。
 そのパークスが、早速、長州による下関事件の償金支払いの代わりに、兵庫・大阪の開港・開市そして輸入税の軽減と、それに加えて幕府による条約に勅許を得ることを要求してきた。しかも7日間の期限付きでその回答をせまり、幕府の内部は大混乱に陥った。

 ここから徳川慶喜の大活躍が始まった。若年寄・立花種恭を兵庫に派遣して、4国に10日間の回答期日の延期を得させ、将軍に上洛して勅許を得る交渉を説得した。
 しかし老中がなかなかそれに応じないので、朝廷に働きかけて朝廷に老中を罷免させ、国許での謹慎を命じさせた。
 朝廷が、幕府の内部人事に介入するのは初めてのことであり、これが幕府内で議論になった。

 10月4日午後6時から、朝廷が「開国」を決めたことで有名な「小御所会議」が開かれた。会議は5日午後8時まで1昼夜続き、さすがに頑迷な攘夷主義者の孝明天皇も、「条約の儀、御許容あらせられ候間、至当の処置致すべき事」と決まった。
 やっと頑迷な朝廷も「開国」に踏み切った。そこで「尊王攘夷」は完全に意味を失い、尊王倒幕―開国に路線が変った。

 倒幕戦争の準備に入った長州藩は、積極的に外国から武器購入を始めた。長州藩の慶応元(1865)年5月の武器購入概算は、装条銃1800丁、剣銃2000丁、金額合計は46000両が予定されていた。さらに7月に長崎に派遣された井上聞多、伊藤俊輔はグラバーと会見し、薩摩藩の名義で小銃購入の契約をした。その数量はミニエー銃4300丁、ゲベール銃3000丁、計7300丁、金額にして92400両にのぼり、密かに長州領内に運び込まれた。
 この武器購入を巡って、薩長両藩の接近が進んだといわれる。そして正式な薩長同盟が慶応2年1月に成立した。
    (小西四郎「開国と攘夷」、中央公論社、「日本の歴史」19、378頁)

●第2次長州征伐
 倒幕戦争を準備する長州藩に対して、幕府は長州藩への再征の計画を進めていた。慶応元(1865)年4月、幕府は前尾張藩主・徳川茂徳を征長先鋒総督に任命(翌月、紀州藩主・徳川茂承に交替)、彦根藩などに従軍を命じ、5月には将軍が征長のために進発することを布告した。
 征長の理由は、「長州藩において、容易ならざる企てがある」という漠然としたものであった。

 この長州再征には、反対論も多かった。前回の総督である徳川慶勝は、再征の名義が明らかではないとして反対したし、前回の副将であった松平茂昭も、再度の出兵は徳川家の興廃にも関わる重大事として慎重論を述べた。
 諸藩にとっても兵を動かす事は迷惑なことであり、反対論がウズ巻いたが、慶応元年5月16日、将軍家茂は、陣笠、錦の陣羽織、小袴といういでたちで、江戸城を出発し西上した。そして閏5月25日、大阪城へ入りここを大本営とした。

 朝議も長州再征が勅許となり、さらに、慶応2(1866)年1月、薩長同盟が成立したときに、幕府の長州藩処分案が決定し勅許を得た。
 その処分案は、藩領10万石を削減、藩主の隠居を規定するもので、幕府が出来る精一杯の処分であったが、長州藩が納得するはずも無かった。
 6月はじめ、先鋒総督・徳川茂承が広島に到着し、いよいよ決戦の気配が濃厚になった。

 慶応2(1866)年6月7日、幕府軍艦が周防国大島郡を攻撃したことから戦端が開かれた。戦いは広島藩の中で行なわれ、一進一退で進行した。長州藩の兵力は、大村益次郎の指揮する諸隊が浜田藩に進出して浜田城を占領。高杉、山縣の奇兵隊が小倉に進撃して、8月に小倉城が陥落するなど、長州藩の圧倒的な勝利となった。これに対して幕府側の士気は全く奮わず、連敗が続いた。このような中で、7月20日、将軍・家茂が大阪でなくなった。まだ21歳であった。

 将軍・家茂の死に伴い、最後の将軍を徳川慶喜が相続した。慶喜は、ただちに長州征討に出陣した。あくまでも武力で長州藩を屈服させようという強力な態度を示し、これを「大討込」といった。
 旗本一同を集めて「毛利大膳父子は君父の仇である。・・たとえ千騎が1騎となっても、山口城まで攻め入り、勝敗を決する覚悟である」と語り、出陣しようとしたところへ、小倉落城の報が伝わり、戦局は絶望的となり、慶喜は出陣を断念したといわれる。(小西四郎「前掲書」442頁)

 結局、8月21日、将軍死去にともない征長停止の勅命が下り、9月4日から撤兵が始まった。

●大勢奉還、倒幕密勅そして王政復古
 兵庫開港問題は、薩摩藩を中心とする倒幕派が、倒幕のための最後の切り札と考えていたものである。それは幕府が条約の勅許を得たときも、兵庫は許可しないと釘を刺されていたからである。朝廷は、京都に近い兵庫をどうしても開港したくなかった。条約では、慶応3(1867)年12月が開港期日になっており、それまでにはどうしても勅許が必要であり、条約を守ると明言した慶喜はどうしてもそれまでに勅許を得る必要があった。

 反幕派は、徳川慶喜の幕権強化を抑えるため、薩摩の島津久光、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城、越前の松平慶永による雄藩連合会議(=四侯会議)をつくり、薩摩藩を中心とした四侯会議に幕府権力を移行させようと考えた。
 しかし慶応3年5月上旬から始まった四侯会議の歩調はうまく揃わず、解散に到った。

 徳川慶喜は、四侯会議の解散に自信を得て、5月23日、朝議に出席して長州藩に対する寛大な処置と兵庫開港の勅許を要請したが、朝議は夜8時から始まり、翌朝になっても結論が出なかった。
 そして会議はさらに午後8時まで1昼夜ぶっとおして激論を行った末に、慶喜の要請に2つとも賛成させられることになった。
 伊達宗城の言葉を借りると、「大樹侯(=慶喜)今日の挙動、実に朝廷を軽蔑するの甚だしく、言語に絶し候」という慶喜の独壇場であったようである。

 この時期に、すでに土佐藩の藩主・山内容堂や後藤正二郎を中心とする大政奉還運動が進められており、徳川慶喜にも伝えられていた。
 徳川慶喜にしてみると、長州、薩摩の倒幕運動に屈する形で政権を失うより、先手をとって大政を奉還し、自らは列侯会議の議長として新政府に生き残るのが最も現実的な道であった。
 そこで慶喜は、この土佐藩の大政奉還論にのって、慶応3年10月14日、大政奉還の上表を提出した。

 慶喜による大政奉還により、長州を先頭にする倒幕派は完全に先手を取られた形になった。あわてた倒幕派は、どうしても武力討幕に持ち込むために、10月14日、正親町三条実愛が長州藩の大久保と薩摩藩の広沢に両藩あての倒幕の密勅を下させ、薩摩、長州が中心となる倒幕運動に大義名分を与える工作をした。
 その中では徳川慶喜を賊臣と呼び、これを征伐せよと述べている。

 この倒幕の密勅なるものは、倒幕派の公家・玉松操が案文を作成し、2書が作成された。1書は10月13日付けで正親町三条実愛が薩摩宛にかき、1書は14日付けで中御門経之が長州藩あてにかいた。(署名は、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、ただし花押がない。)

 これにより倒幕派は、明白な大義名分を得たことになるが、この密勅は、形式、手続きなど非常に疑問が多く、岩倉などの策謀による偽勅の可能性が高い。徳川慶喜を信頼し、公武合体をすすめていた孝明天皇が存命であれば、絶対に下されない性質のものであった。

 孝明天皇暗殺の疑惑が現在に至るまで絶えないのはそのためである。いずれにしても武力倒幕へのお墨付きを得た長州と薩摩は、早速、武力討伐の軍を起こした。
 薩摩藩主・島津茂久は家老・島津伊勢や西郷吉之助を従え、11月13日、3000の兵をつれて鹿児島を出発して東上、長州に到着。これに先立ち、大久保が土佐藩を訪れ、土佐藩に討幕運動への参加を勧めた。
 
 さらに、芸州藩を加えて、11月末に薩・長に芸州を加えた討幕軍が京阪神地方に終結した。ここで大久保一蔵、岩倉具視らが中心になり、王政復古のクーデター計画が練られ、12月9日にそれを決行することになった。
 12月8日夜、岩倉具視は薩摩、土佐、芸州、尾張、越前5藩の重臣を自邸に招き、王政復古の断行を告げ、協力を求めた。このようにして5藩の兵が、宮廷の警護についた。

 12月8日から始まった朝議は夜を徹して行なわれ、12月9日、王政復古のクーデターが成功し、摂政・関白・幕府の廃絶を含む王政復古の大号令が出されることになった。その結果、翌年(1868)1月3日の鳥羽・伏見の戦いから、倒幕の戊辰戦争に突入した。






 
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