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日本人の思想とこころ
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  (2)2.26事件裁判の異常性

 5.15事件も相沢事件も軍事裁判ではあるが、弁護士がついて裁判の形を成して行なわれた。しかし史上空前の大事件である2.26事件については、弁護士も証人もなく、全く裁判の形式をなさない暗黒裁判であり、わずか5ヶ月で判決が下り、処刑まで終わるという異常な軍事裁判になった

 しかもその裁判記録は極秘中の極秘として軍法会議の書庫に厳重に収納されたまま、東京大空襲ですべて焼けた?といわれる。さらに、戦後の極東裁判においても、直接戦争犯罪に関係しないため、公式には探索されなかった。そのため2.26事件の全貌は現在なお不明な部分が多い。松本清張などにより体系的に調査されたが、今でも暗黒部分が多く残る事件となっている。

 東京陸軍軍法会議は、裁判部の法務官が小川関治朗を筆頭に21名、検察部は匂坂春平を筆頭に12名、計33名で構成された。12名の検察官による予審は行動事実を中心にして事件の直後から始まり、3月末までに1500人を取り調べたという。そのことからも、いかに予審調書の作成を急いだかが分る。

 第1回公判は、4月28日の氏名点呼から始まった。村田の獄中日記によれば、その頃、被告の間には比較的楽観ムードが漂っており、4月29日の天長節には大詔が渙発されて、大赦により出所できると思っていた、という。
 4月24、25日に公訴提起の通知があった時には、不起訴の予想が崩れたことに驚いた、という。
 一方、3月1日に陸軍大臣川島義之の名で出された「事件関係者の摘発捜査に関する件」という秘密文書においては、「今次の叛乱は、全軍又は軍首脳部の後援により行なわれ又は軍自体の八百長なるが如き疑惑を深からしめ、今日にいたるもなお完全に解消する能わざる状態なり」と書かれている。
 つまりこのまま被告たちを不起訴にすると、2.26事件が軍自身の組織的行動であったと誤解されかねない状況にあった

 軍首脳部は、2.26事件の裁判をキチンとやって「叛乱」将校たちを厳罰にすれば、彼らに同情する全軍の中堅将校たちによる突き上げが激化し、陸軍中枢部の将官の責任が問われかねない。
 逆にイイカゲンにやれば、軍首脳部もグルであったと思われ、社会的に軍の責任が追求されることになるのみか、天皇の承認も受けられないことになる。

 そこで陸軍の首脳部は、反乱軍の青年将校たちを厳罰にして、天皇と社会に対して軍の責任を明確にすると同時に、この決定に対して予想される軍内部の青年将校の不満に対しては、その吐け口を外国との戦争に転化することにより、一挙に解決する道を選択したと私は考えている。 

 これが翌年から始まった「中日戦争」であった。そのために陸軍の首脳部は、裁判の早期終結を急いだ。
 特設軍事法廷の長官はなんと戒厳司令官が勤めることになった。安藤輝三大尉の言葉を借りれば、「裁判は非公開、弁護人はなく、証人の喚請は全部却下、発言の機会等も全く拘束された。」

 青年将校たちは、裁判の中で事件における動機、思想、信念、原因、社会情勢などを主張したいと考えていた。しかし裁判において、それらは一切無視され、被告たちの事件における役割や行動とその結果だけに絞られた。

 「それはもはや裁判ではなく捕虜の訊問であった。そして被告たちはすべて「民主革命者」(=北一輝による国家社会主義思想の信奉者の意味か?:引用者)として葬り去られた。(安藤輝三「遺書」)
 つまり2.26事件の首謀者として北一輝を祭り上げることにより、2.26事件の責任を軍から切り離し、軍首脳部の責任を問われなくすることが、2.26事件の裁判のシナリオであった、と思われる


 7月5日、次のような判決が出た。
死刑    将校13名、常人4名(内元将校2名)
無期禁錮 将校5名
有期禁錮 将校1名、下士44名、兵3名、常人6名

 有期禁錮の将校は、相沢事件の弁護人参謀本部員 歩兵中佐・満井佐吉である。
 また死刑の常人4名とは、民間人の北一輝と西田税、そして磯部浅一、村中孝次である。そして将校たちの処刑は、7月中に終了した。

 陸軍は日本中を震撼させたこの大事件の処分を、なんと発生からわずか5ヶ月で処刑まで終わった。いかに処分を急いだかが分る。
 その翌年、日本陸軍は中国において長い戦争への口火を切った。そして昭和維新における「尊王倒奸」というスローガンは、「八紘一宇」(=世界中を日本の屋根の下に入れる)というスケールの大きなものに転換させられた。
 それは明治維新が、尊王攘夷から突然、開国に代わったのに似ていた。




 
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