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日本人の思想とこころ
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  (3)尾崎秀実(ほずみ)
●おいたち

 尾崎秀実は、ゾルゲ裁判における「上申書」において、自分の生い立ちを詳しく述べている。それによると尾崎は、1901(明治34)年5月1日、岐阜県東濃の農民的な父と、下総古河藩士の娘を母として生まれた。父は敬神崇祖の念に篤く、詩文に優れていた。その父が台湾日日新聞社の記者をしていたため、少年時代を台湾台北市で送り、現地の台北中学校を卒業した。この日本の植民地での生活が、その後の国際性に強い影響を与えたと思われる。

 1919(大正8)年に第一高等学校に入学した。当時、一高には社会問題研究会、東大には新人会ができるなど、学生の社会問題の研究団体が活躍しており、20年には「森戸事件」が起こり、左翼思想に対する弾圧が強くなってきていた。
 尾崎が在籍したドイツ語を主たる外国語とする一高の文科乙類では、ドイツ西南学派の哲学を研究しており、社会思想とはかなり離れた状態にあった。

 1922(大正11)年に東京帝国大学法科に入学した。翌年、共産党の第1回検挙があり、さらに関東大震災後の朝鮮人虐殺事件の実情を見て、強い衝動を受け、社会問題を研究対象にすることを決めた。
 1925(大正14)年に、東京帝国大学法学部政治学科を卒業、それから1年、大学院に残って大森義太郎・経済学部字教授のブハーリンの「史的唯物論」の研究会に出席し、シナ問題の研究に集中した。
 
 1年後、東京朝日新聞社に入社。学芸部に所属して放送局に詰め、そこで文化運動に参加した。1927(昭和2)年、大阪朝日新聞社シナ部へ転勤し、翌年11月、上海へ特派員として派遣された。

●上海時代
 尾崎が行く前の上海バンドの公園には、「犬とシナ人、入るべからず」という立て札が立っていたといわれる。それほど中国人に対する差別は激しく、そこでの支配者はイギリスであることを実感させられた。
 それにも拘らず、中国人の憎しみはイギリスではなく日本に向けられていることを知り、尾崎は驚いた

 それは尾崎が少年時代を送った台湾の民衆が日本人に向けた憎しみに似ていた。
 尾崎が上海へ来る前の1921年に、郭沫若が東京で結成した創造社という左翼文芸派の一団があった。それは北四川路の朝日新聞上海支局の近くに事務所があり、文芸左翼の人々がよく集まっていた。

 その階下の書店では、いろいろな国の左翼文献を自由に買うことができたので、尾崎はここに28年12月頃から出入りするようになり、創造社の同人たちとの親交を結んだ。1930年3月に左翼作家連盟が発足したとき、魯迅がその指導的位置についており、尾崎は魯迅と知り合いになり、魯迅の作品集「阿Q正伝」の日本語訳を作った。

 また29年夏ころから、尾崎は上海・蘇州河にある「ツァイト・ガイスト」という左翼系の書店を訪れた折に、そこの経営者の姉妹と仲良くなった。
 その書店は、国際的運動の連絡所であったらしく、その女主人を通じて、丁度、中国へ来たばかりのフランクフルテル・ツァイツングの記者であったアグネス・スメドレーと知り合った。また30年9月19日には、魯迅の50歳の祝賀パーティにおいて、尾崎は前年知り合っていたスメドレーを魯迅に紹介している。

 尾崎が、当時、特別に関心をもって接触した団体は日支闘争同盟であった。
 この同盟は、最初は読書会であったがその後に実践団体になり、反戦反帝の行動の中心になっていた。
 尾崎はこの団体に個人的な経済支援を行なうとともに、中国人の革命家との同志的な交際を強め、この組織を通じて諸外国の共産党、国際情勢、中国の政治、経済の情報を入手した。

 1930年秋、尾崎はアグネス・スメドレーから、ジョンソンという「アメリカの新聞記者」を紹介された。このジョンソンが、実はゾルゲであることを知るのは,日本に帰った後のことである。
 ゾルゲは、尾崎に中国の内部情勢、日本の対華政策、を知らせてほしいと頼んだ。それはゾルゲが赤軍第4本部から指示された任務に含まれているものである。

 ある時は市内南京路の中華料理店、ある時はフランス租界のスメドレーの家で、毎月1回くらい尾崎はゾルゲに情報を提供し、この関係は尾崎が朝日新聞大阪本社へ転勤するまで続いた。そして上海事変の真っ最中に尾崎は転勤命令を受けた。
 大阪朝日新聞社へ戻った尾崎は、大原社会問題研究所の細川嘉六の研究所を中心にして、中国問題の研究を続けた。
 スメドレーは、華北に情報機関を設けたいと考えており、尾崎にそこの責任者になることを勧めてきた。彼は、今後は日本で働きたいと考えていたため、代わりに川合貞吉を紹介した。

 ゾルゲは1933年に上海を去った。そして新しい活動の舞台として日本を選び、東京へ来た。33年にモスクワを出発するにあたってゾルゲに与えられた任務は、満州事変以後の日本の対ソ政策の詳細の観察、日本の対ソ攻撃計画に関する研究であった。

●帰国後の活動
 1934年の晩春、大阪朝日新聞社にいる尾崎を「南竜一」という青年が訪れ、ジョンソンという外人が会いたいということを告げた。この青年がアメリカ共産党員で画家の宮城与徳であり、ジョンソンとはゾルゲのことであった。
 ゾルゲがドイツ大使館の中で2.26事件の調査により厚い信任を受けるようになった頃、尾崎も西安事件に対して的確な評価を行なったことから、中国問題について言論界での比重を増していた。
 そして、それが尾崎が政界の中枢へ接近する契機になった。

 1936(昭和10)年末に「西安事件」(=中共軍討伐の督戦に西安に飛んだ蒋介石が、張学良の東北軍に監禁されて、抗日の実行を約束させられた事件)が起こった。
 このとき尾崎は、事件の本質を的確に把握し、消息不明になっている蒋介石の生存を予言していた。

 そのことから中央公論は、37年・新年号で西安事件を特集したとき、尾崎に原稿を依頼し、さらに西園寺公一が主宰していた「グラフィック」という雑誌も、尾崎に西安事件の原稿を依頼してきた。この西安事件により、尾崎の長年にわたる中国研究の実力が証明されることになった

 同じ36年の夏、太平洋問題調査会の第6回大会が、カリフォルニアのヨセミテ国立公園で開催された。この大会の中心議題に中国問題が選ばれることになり、調査会の日本理事会・事務局長であった牛場友彦が、尾崎を中国問題研究家として推薦し、この代表団の西園寺公一との交友関係が生まれた。
 
 さらに尾崎は朝日新聞の論説委員をしていた佐々弘雄の紹介により、37年4月ころから、後藤隆之助が主宰する、近衛公のシンクタンクとして有名な「昭和研究会」のシナ問題研究部会(責任者、風見章)に参加した。
 さらに、その風見が近衛内閣の書記官長に就任したため、尾崎は昭和研究会におけるシナ問題研究部会の責任者になった。

 1937年7月、盧溝橋事件が起こったとき、尾崎は事件が「世界的動乱へ発達する危険」を感じて、風見内閣書記官長にすぐに事態の重要性を警告したが、その忠告は受け入れられなかったといわれる。
 翌38年6月、朝日新聞社を退社し、首相官邸の地下に1室をもらい、内閣嘱託として日中問題の処理に協力することになった。

 内閣嘱託となった尾崎の活動は、張鼓峰事件、王兆銘工作に着目して、中国国民の再組織問題に関心を払うと同時に、政策に対して積極的にはたらきかけた。
 その一方で、言論界に対しては東亜共同体論、東亜新秩序問題に独自の論を展開することにより、現実政治に密着した活動を展開した。
 しかし第2次近衛内閣の成立以降、尾崎は次第に近衛の周辺から遠ざけられていった。そして1939(昭和14)年、近衛内閣総辞職にともない、尾崎は内閣嘱託を解任された。

 検挙までの2年間、ゾルゲと尾崎の最大の関心は、日ソ間に戦争が起こるかどうか?ということであった。
 ゾルゲは、松岡外相が日ソ中立条約を締結して帰国した1941年春ころから、ドイツ本国の情報により、ナチス・ドイツのソ連侵攻の情報を的確に把握し、独ソ開戦の日時を6月20日、遅れても2,3日と予測した。
 ゾルゲの予測通り6月22日に独ソ戦が始まった。そのため開戦後、ゾルゲの功績をたたえる電波がモスクワから贈られたという。(尾崎秀樹「ゾルゲ事件」116頁)

 独ソ開戦により、一時緩和していた日ソ関係が再び緊迫化した。特に、満州に70万の兵力を投入して行なわれた関東軍特別演習、いわゆる「関特演」は、重大な危機を孕むものとして尾崎とゾルゲの関心を引いた。尾崎は、近衛グループの中で、強硬に日ソ開戦反対を唱えた。
 尾崎の主張がどれだけ政策を動かしたか分らないが、結果からいえば日本の国策は急角度で南進した。8月末、尾崎は「すくなくとも年内は日本の対ソ攻撃はない」とゾルゲに報告している。

 さらに、9月に満鉄の大連本社で開かれた「新情勢の日本の政治経済に及ぼす影響調査会議」に出席した尾崎は、「関特演」以後の軍の動静を調査した。その結果、尾崎は対ソ戦中止の状況を確認することができた。
 尾崎が近衛の側近から遠ざけられる頃から、昭和塾、昭和研究会関係者にアカすぎるといううわさが立ち始めた。
 尾崎が積極的に主張する東亜共同体論そのものが、左翼理論の偽装と思われ始めており、尾崎が国内の雑誌に発表した論文がソ連の雑誌に転載され、それが日本の官憲の目に付きマークされているといううわさまであった。

 昭和16年9月頃には、アメリカ帰りのコミュニストたち、ゾルゲの周辺、尾崎の周辺などに、特高の網は絞られていた。尾崎は10月15日に自宅で逮捕され、ゾルゲは18日に自宅で逮捕された。

●尾崎秀実の思想
 尾崎秀実は、心情的にはコミュニストではあるものの、ゾルゲを含めて日本共産党の組織や活動とは関わりを持っていない。むしろ意識的に避けていたと思われる。
 またスパイとはいっても、その内容は高度に政治的、政策的なテーマである。
 ゾルゲにしても尾崎にしても、スパイといっても金銭を目的にした諜報活動ではなく、自分の政治的信条に基づいた確信犯的なものであったといえる。

 この尾崎の行動の背景になった思想を「上申書」から推定してみると、つぎのようなものである。

 まず世界資本主義は第1次世界大戦とその後の戦後大恐慌により、完全に行き詰まりの状態になってきている
 その結果として、世界は正統的帝国主義国家群と、ファッショ的帝国主義国家群に分裂した。この場合の戦争は、共倒れになるか、または一方が他を制圧するかであり、敗戦国家は第1次世界大戦の場合と同様に、プロレタリア革命に移行する可能性が最も高い。また一方が勝ち残った場合でも、内部的な疲弊と敵対国の社会変革により、社会革命が勃発する可能性がある。

 一方、この帝国主義間の戦争から超然として大恐慌の影響もなく、5ヵ年計画により発展をつづける強大なソ連が存在しており、これが帝国主義戦争後の世界の中心になると考えた。尾崎、ゾルゲを含めて、当時の理想主義者たちには「スターリニズム」の正当な評価が完全に欠如していた。

 さらに、植民地,半植民地が、この戦争を通じて自己解放をとげ、その間にある民族は共産主義の方向をとると考えた。すくなくとも長い西欧の植民地からシナ革命により脱却する中国は、その方向へ向かうであろうと考えた。
 そして、この大きな歴史の動きの中で、日本もソ連,中国もプロレタリアートが手を組み、共産主義社会を実現するのが、もっとも現実的な政策であると考えた。

 残念ながら、世界がその後に実際に辿った道はこれとは全く違っていた。
 第2次世界大戦により、アメリカを除く帝国主義諸国は非常に弱体化したが、マーシャル・プランなどの戦後のアメリカによる国際政策のおかげで、資本主義そのものはしたたかに生き延びることに成功した。

 その反面で、社会主義のほうは、20世紀の中葉には世界中に拡大する形勢をみせたものの、一国社会主義を機軸にした「スターリニズム」は、その圧制と権力腐敗のために、20世紀末をもって崩壊した。

 尾崎が活躍していた頃、既に、ソ連を中心にスターリニズムは猛威を振るっていた。しかしゾルゲや尾崎のみならず、世界中の多くの思想家や活動家はそのことを知らなかった。
 当時、既にスターリンの常識を超えた粛清については、多くの情報が流れていたが、それらはすべて資本主義による悪質なデマとして無視されており、それらが「真実」であることが分るのは半世紀も後のことになった。

 第1次世界大戦で3度も重傷を負い、戦死の危険にさらされた愛国主義者ゾルゲは、ドイツへ帰国できたとしても、おそらくナチスの秘密警察はソ連の2重スパイとして逮捕し処刑したと思われる。
 また日本が対ソ戦に踏み切らないことをソ連政府に通報する大きな功績にも拘らず、ソ連に帰国した場合にスターリンの秘密警察が、コミンテルンの組織下にいたゾルゲをそのまま許すわけはない。ソ連においても待っているのは、秘密強制収容所であったと思われる。

 つまり国際社会主義者のゾルゲや尾崎は、日本で処刑されなくても、どこの国でも消される運命にあったと私には思われる。ここに国際主義に立脚した愛国主義者たちの悲劇があった!

 20世紀の始めには、多くの人々が今世紀中には資本主義が崩壊し、社会主義へ移行すると思っていた。そしてその社会主義では、個別国家のエゴイズムを支える狭義の「愛国主義」はなくなり、抑圧される立場の人々を護るヒューマンな「国際主義」が主流になるはずであった。
 ところが実際の歴史ではその逆になった。ここにゾルゲや尾崎の真の悲劇性がある。




 
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