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日本人の思想とこころ
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  (3)壬申の乱と藤原氏の復活

●壬申の乱 
 天智8(669)年10月16日、藤原鎌足は亡くなった。天智天皇はその死の直前、鎌足に大織の冠と大臣の位を授けた。もともと藤原鎌足の姓は中臣「連」(むらじ)で身分は最高位の「臣姓」ではなかった。
 大化改新のような変革の時代でなければ、藤原鎌足は宮廷内で高い地位を極めることは出来なかったと思われる。それが最後には、大臣の地位を得たことは、大化改新という大変革のおかげであった。鎌足の死に続いて、天智天皇も2年後の天智10年12月3日に近江宮で崩御された。

 天智天皇の後継は、既に御在位中から皇太子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子との間で、対立が予想されていた。672年、皇位の継承をめぐって大友皇子と大海人皇子の間で1か月に及ぶ内戦が展開され、その結果は、大海人皇子派が勝利した。いわゆる壬申の乱である。
 大海人皇子は、673年1月、飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となる。

 天武天皇は武力で皇位を獲得した。そのため足元をたしかにするため、宮廷内の反対派官僚は、当然一新された。そのため天智天皇のもとで出世した藤原氏は、宮廷において逆境にさらされることになったと思われる。
 天智天皇から天武天皇にかけて、国家の上級人事がどのように変わったかを「公卿補任」から表-1にあげる。鎌足の息子の藤原不比等は、まだ地位を得ていなかったことがわかる。それがその後に、幸いしたと思われる。

図表-1 公卿補任の官位
天智天皇元年 天武天皇元年
役職 冠位 名前 役職 冠位 名前
大臣 大紫 蘇我連子臣      
内大臣 大織冠 藤原鎌子      
太政大臣   大友皇子      
左大臣 大錦上 蘇我赤兄臣 左大臣 大錦上 蘇我赤兄臣
右大臣 大錦上 中臣金連 右大臣 大錦上 中臣金連
御史大夫   蘇我果安臣 大納言   蘇我果安臣
同上   巨勢毘登臣     巨勢毘登臣
同上   紀大人臣     紀大人臣
          大伴望陀連
          五位舎人王

 公卿補任は、天武元年しか記載していないが、既に、最高人事の欄がすべて空欄になっている。
 左右大臣は、天智天皇のときから横滑りのように見えるが、此れは暫定的なものに過ぎない。左大臣・蘇我赤兄、御史大夫・巨勢毘登臣とその子孫、および中臣金連、蘇我果安臣の子まで配流された。中臣金連は切られ、蘇我果安臣は自決した。

●藤原氏の復活のナゾとき  
 壬申の乱の後、蘇我連子臣、藤原鎌子は、既に亡くなっていたが、若し存命していれば死罪をまぬがれなかったと思われる。天智天皇の子の大友皇子は壬申の乱で自決し、側近たちはすべて天武天皇により根絶やしに粛清された。
 藤原鎌足の子の不比等は、壬申の乱のときまだ13歳であり、朝廷内に地位を得ていなかったことが幸いしたと思われる。

 藤原不比等が、再び朝廷の中で有力な地位を占め始めるのは、壬申の乱から40年以上をへた、元正天皇の西暦715頃からのことである。
 藤原氏が台頭してくる最初は、鎌足の子の不比等からである。彼は鎌足に似て非常に優れた官僚であり、文武天皇、元正天皇の下で、大宝律令、養老律令を編纂し、律令国家の仕上げを行なうという大きな功績を残した。

 さらに、朝廷内に藤原不比等をめぐる人間関係が形成されていった。その大きな原因は、文武天皇の皇后として不比等の娘の宮子姫が入内し、さらに、天武天皇の頃から内命婦として宮中に勢力をもっていた橘三千代が、不比等の妻となったことにある。
 その橘三千代の娘は後の光明皇后であり、藤原氏と皇室との密接な関係はこの頃から始まった。

 近江律令以来、わが国の律令編纂における鎌足,不比等の功績は非常に大きかった。
 それを図表-2にあげる。

図表-2 わが国の律令編纂と鎌足,不比等のかかわり
天皇 律令名 編纂着手年 施行年 編纂者
天智天皇 近江律令22巻 668年 671年 中大兄皇子、中臣鎌足、高向玄理、晃法師ほか
天武天皇 天武律令22巻 683年 685年? 粟田真人、伊吉博徳、中臣大島ほか
文武天皇 大宝律令、律6巻、令11巻 700年 701年 刑部親王、藤原不比等、粟田真人ほか
元正天皇 養老律令10巻 718年 藤原不比等主裁、ほか
称徳天皇 刪定律令 769年 791年 吉備朝臣真備、大和宿弥長岡

 このように律令国家の創設に大きな役割を果たした藤原氏が、次には荘園制の拡大とともに律令制の解体の主役となっていくのは、歴史の皮肉を物語るものである。




 
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