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日本人の思想とこころ
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  (2)極楽往生の実践 ―その組織とケース・スタディ

●死後研究の秘密結社 ―二十五三昧会の活動
 横川の僧・源信の「往生要集」は、死後に極楽往生をするための理論と方法を詳細に明らかにした。しかし実際に死んだとき、そこに記述されているように極楽往生ができるかどうかを、実証的に確かめる必要がある。
 つまり源信の理論の実践活動による検証が必要であり、その試みがなされた。

 それは、「日本往生極楽記」(985?)の編者・慶治保胤と「往生要集」の源信などを含む25人を発起人とする「二十五三昧会」(にじゅうご さんまいかい)という秘密組織の活動として行なわれた。
 この会の内容は、永延2(988)年6月15日付けの「横川首楞厳院二十五三昧式」という起請文に述べられている。

 それによると、この会は、毎月15日に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で開かれた。
 会は、未時(午後3時頃)に会員一堂が集まり、申時(午後5時頃)から法華経の購読を行い、廻向のあとで起請文を読む。酉終(午後8時頃)から翌朝の辰初(午前8時頃)まで夜を徹して念仏と阿弥陀経の読誦を行なう。

 この結集は、会のときだけではない。会員の関係は党と呼ばれて「父母兄弟の恩」をなし、たがいに離れ離れの生活を送りながらも、決定往生のための契りをかわしていたといわれる。
 会員資格は死後にも維持され、起請に従わない場合には、一同協議の上除名されることになっていた。
 
 この会は決定往生の団体であることから、党員の命が危うくなると、全員で対応することになる。
 まず番を作って看護にあたり、病人を阿弥陀仏を安置した草庵に移す。会員の臨終に当たっては、一同こぞって極楽往生の一念を助け、臨死の会員がこの世とあの世の境で見えてくるものを聞き取ったといわれる。

 会員が死ぬと、共同墓地である安養廟に葬られ、党員が全員でその冥福を祈った。党員は、死後にも会に通信をおくる資格と義務があるという、大変な会であった。
                 (井上光貞「日本浄土教成立史の研究」) 
 この趣旨に沿って、生者と死者を総合した会員名簿が「二十五三昧過去帳」として残されている。

 二十五三昧会が発足する20年前から、慶滋保胤と叡山の僧侶との間では、3月と9月の15日には法華経の購読と念仏を、夜を徹して行なう「勧学会」というのが行なわれてきていた。
 これも会合は、年2回であるが、日常生活における精神的団結をはかったものであり、「党」と呼ばれたのも、そのためである。
 二十五三昧会は、勧学会の発展したものであり、「往生要集」はこれらの同行同信の念仏団体における指南の書としての性格をもつものであった。

 一方、慶滋保胤は、貴族や権門勢家の人々が幅を利かす「近代人世」を描いた、「池亭記」の著者として知られる人物である。
 しかしその保胤自身は、朝は新邸の西堂に参じて阿弥陀仏を念じ、昼は朝廷の王事に従い、夜は東閣にこもって古賢の書に親しむ人物であったといわれる。(井上光貞,大曽根章介編「往生伝 法華験記」日本思想体系 ―文献解題)
 そのため、彼によって編集された日本最初の往生伝としての「日本往生極楽記」は、編者自身が、勧学会などを通じて採取したなまなましい見聞を収めている。

●日本霊異記―死後世界の記録
 平安朝になると人間の死後世界の研究の一環として、立派に極楽往生を遂げた人々の伝記、臨死体験、死んで生き返った人の体験談、などのケース・スタディが、収集され発表されるようになった。

 その冒頭を飾るものが日本霊異記である。それは正確には「日本国現報善悪霊異記」といわれ、弘仁13(822)年頃、景戒という僧により編集された日本最古の仏教説話集である。

 編者である景戒という人は、その序文には薬師寺の僧と書かれている。
 その下巻、38話には、長岡京で造宮長官・藤原種継が暗殺されたとき(延暦4(785)年)、非常な衝撃を受けた編者自身の体験話が書かれており、法相宗の僧ではあるが、妻子とともに俗家に住む私度僧であったと思われている

 私度僧とは、公の許しを得ないで自ら僧になった人であり、そのような編者の性格から同書には、行基上人を中心とする私度僧が大勢登場している。
 その出身地は紀伊国のようであり、延暦14(795)年には、僧位の第4番目である伝灯住位を得ているが、私度僧という性格のため「元享釈書」などには全く掲載されていない

 話の数では、合計116話という多数の話を収集している。上巻は雄略天皇(5世紀後半)から聖武天皇の神亀4(727)年まで、中巻は、聖武天皇の天平元(729)年から淳仁天皇の天平宝字7(763)年まで。下巻は称徳天皇から嵯峨天皇の時代(764-823)を対象にして、400年にわたる話が年代を追って記載されている。

 編集されたのは平安時代の初期であるが、話の内容の大部分は奈良時代とそれ以前である。また薬師寺関係以外に、東大寺、元興寺、大安寺など、奈良時代の仏教や寺院に関する話が多い。
 その意味から大体は奈良時代の仏教説話を集大成したものといえる。(「日本霊異記」東洋文庫版、「解説」)

▲霊異記における地獄
 ここに「地獄」が初めて登場し、「度南の国」(上巻、30話)と呼ばれた。度南国がどこにあるのかは、よく分らない。
 話の内容は、文武天皇の慶雲2(705)年秋9月15日に、今の福岡県京都郡に住んでいた膳臣広国(かしわでのおみひろくに)という人が死んで、3日目の午後4時頃、突然生き返り死後に行った国の話をした。

 広国は地獄へいき、昔の妻が鉄の釘を額から頭の上まで通され、鉄の縄で縛られているのを見たり、死んだ父が熱い銅の柱を抱き、鉄の釘37本を体に打ち立てられていたのを見た話などを語る。

 中巻以降には、地獄へいった話は多数登場し、さらに下巻になると、その地獄には閻魔の庁がある話が多数出てくる。(例、第9、第22、第37、その他)
 その時代は、8世紀の中ごろ以降のことであり、8世紀の後半には閻魔庁が支配する地獄のイメージは大体、出来上がっていたと思われる。 

▲霊異記における極楽
 地獄について霊異記の記述はかなり多い。しかしそれに比べて極楽浄土についての記述は殆ど見られない。そのことは平安朝の後期以降の説話集がいかに極楽往生に成功したかという記述が多いのに比べて、極めて対照的である。
 霊異記に見られる数少ない往生伝は、次のようなものである。

 推古天皇33(625)年12月8日、紀伊国名草郡の大部屋栖野古(おおともの やすのこ)の連公(むらじのきみ)が浪速で急に亡くなり、死後3日で蘇った。
 妻子に語っていうには、5色の雲が虹のように北に伸びており、その雲の道をいくと、名香を含んだ香ばしい香りがした。見ると道のほとりに、黄金の山があり、いってみると西方に輝いていた。そこに聖徳太子が立っておられて、共に山頂へ上った。

 黄金の山には1人の僧がいた。太子は、丁寧に礼をして「私は東の宮の童子です。いまから後、8日をすぎてこの者は鋭い鉾に合うであろう。どうか仙人の薬を飲ませてやってくださいといい、手に巻いた玉を1つ取って飲ませ、「ナムアミダブツ」と3度唱えて礼拝させた。

 「ナムアミダブツ」ということは、そこはアミダ浄土、つまり極楽であったらしい。太子は「早く家に帰って、仏を作るところを掃除せよ。私が仏前で懺悔し終わったら、宮へ帰り仏をつくろう」といわれて蘇った。(上巻,第5)

 今ひとつ、霊異記の唯一ともいえる道昭法師の往生伝が記されている。
 道昭法師(629-700)は、飛鳥時代の高僧で法相宗の開祖、姓は船氏、河内の人である。天皇の命により仏法を求めて唐にわたり、玄奘三蔵の弟子になった。帰朝して元興寺に住し、禅院の禅林寺を建立し唯識学を講じた。晩年、諸国を行脚し、土木工事や社会事業を行ない、行基上人の師でもある。

 人格は高潔で人を導く徳に欠けることなく、知恵は輝いて鏡のようであった。あまねく各地を遊歴して仏法を広め、人々を教化した。亡くなるときは、体を洗い、着物を着替え、西に向い正座した。すると光りが室内に満ち溢れた。

 道昭法師は弟子の知調に光りが見えるか?と聞き、他の人に言い広めてはいけないといった。夜明けに光りは室から出て、庭の松の木を輝かした。しばらくして光は西ヘ向かい飛んでいた。弟子たちは皆驚き、フシギに思わないものはなかった。
 道昭大徳は西へ向って正座し、丁度、その時、亡くなった。
 必ず極楽往生したと思われる、と霊異記は述べている。
 この道昭法師の話は、霊異記にまだ同種の往生伝はないが、その後に作られた往生伝の原形のように見える。

▲霊異記におけるフシギな輪廻転生の話
 霊異記のフシギなことは、延暦6(787)年頃に奈良時代の仏教説話を中心にして一応成立したのに、それから30年以上をへた嵯峨天皇の820年頃になり、当時の奇妙な逸話が下巻の最後の39話に加えられて完成している。
 その付加された内容というのが、今上帝である嵯峨天皇の転生にかかわる不思議な話である。その話の筋書きを最後に簡単に述べる。

 孝謙天皇の御世(750-758)に、愛媛県の石槌山に寂仙菩薩という浄行の禅師がいた。臨終のとき、死後28年のちに国王の子として誕生し、その名は神野という。これが寂仙の生まれ代わりであると遺言して亡くなった。
 それから28年後の桓武天皇の延暦6(787)年に、神野親王が生まれた。それが嵯峨天皇(在位809-823)である。(下巻第39話)

 この話が非常にミステリアスであるのは、石槌山の寂仙禅師が転生する遺言を遺して亡くなったのは、日本霊異記が最初にまとめられた頃である。そしてその遺言とおりに神野親王が生まれ代わって嵯峨天皇となって現われるのが、日本霊異記が最終的な完成時期である点にある。
 つまり嵯峨天皇の転生の話は、日本霊異記がつくれた時期と完全に同時平行しており、しかも30年もかけて生まれ変わるというフシギな話である。

 その神野親王=嵯峨天皇とは、「いろは歌のナゾ」で述べた今ひとつの「いろは歌」に隠されていた「かみのあやつり」の神野親王その人なのである。
 なぜこのような同時代の話が、長い空白期をへて掲載されているのか?考えてみると、フシギなことである。

●日本往生極楽記に見る臨死体験
 10世紀頃から、日本では「人の死に方の研究」ともいえる夥しい量の説話集が出版され始めた。その冒頭をなすものが慶滋保胤の「日本往生極楽記」である。
 そこには聖徳太子から、加賀の国の一女性にいたる45人の極楽往生の記録が収められている。

 この中には、二十五三昧会を通じての実践記録が収録されていると思われる。
 それを見ると、最近のニューサイエンスにおける「臨死体験」と非常に共通した記述がいくつか登場してくる。
 そこで、臨死体験との関連から「日本往生極楽記」(以後,「極楽記」という)の記事を見てみよう。

 なお現代の臨死体験については、次の著書を参考にしている。
  立花 隆 「臨死体験」上、下、文芸春秋
  立花 隆訳 「バーバラ・ハリスの「臨死体験」」、講談社
  レイモンド・A・ムーデイ・Jr 「かいまみた死後の世界」、評論社

▲臨死体験における明るい光
 臨死体験においては、「非常に明るい光」が現われる。「極楽記」では、延暦寺座主僧正・増命(6)が亡くなるとき、「金光忽ちに照らし」、紫雲たなびき、音楽が空に聞こえ、香気が室に溢れた。(括弧内は「極楽記」の番号)

 河内国河内郡の僧 沙彌尋祐(29)は、和泉国松尾の山寺で亡くなった。その夜、戌の刻から亥の刻にかけて大光明があり、山中はまるで昼のようになったが、亡くなると同時にこの光明も消えた。この夜、里人は火事と間違うほどの「大光」を山寺に見た。

 延暦寺楞厳院の十禅師尋静(14)は、亡くなる前、夢の中で大きな光の中に、数十人の禅僧が宝輿をもって音楽を唱えながら虚空の中にいるのを見た。

▲聞きなれない音
 臨死体験では、さまざまな「聞きなれない音」が聞こえることが報告されている。「極楽記」では、天に音楽が聞こえる事は数多く記録されている。聞きなれない不快な音という記述はないが、音楽のほかに「櫓の音」が聞こえたという記述もある。
 
 摂津国豊島郡にある箕面の滝の松の木の下で修行していた僧(23)に、天からお迎えが来たとき、生死の大海をわたるいかだの櫓の音が聞こえた。衆生を極楽浄土へおくる、いかだの音であった。

▲心の安らぎと静けさ
 臨死体験では、多くの人々が「心の安らぎと静けさ」を感じるという。極楽記では、梵釈寺の十禅師兼算(13)という僧が、病に臥して大変苦しんでいた。ところが7日の後に、急に起き上がって「心神明了」になり、自分の命はまもなく終わるであろうと語った。

 また伊予国越智郡の役人であった越智益み(36)という人は、池亭記の著者と同様に、朝は法花を読み、昼は国務に従い、夜は阿弥陀仏を念じる暮らしをしていた。臨終に当たっては、身に苦痛もなく、心に迷いや乱れもなかった。

▲臨死体験における美しい花園や野原
 臨死体験では、多くの人が「美しい花園や野原」を見ている。極楽記には、花園や野原はでてこないが、「異香室に満てり」など、芳香がしたという表現は多数でてくる。おそらくは花や香のかおりであろう。蓮のかおりと特定したものもある。

 近江国の国主彦真の妻であった伴氏(36)は、少女の頃から常に阿弥陀仏を念じてきた。臨終の日、座を胎蔵界曼荼羅の前に移した。この女性が、病気で息も絶え絶えの間、蓮の香りが室に満ち溢れ、雲気が簾に入った。身に苦しみはなく、西に向って亡くなった。

 極楽記では、極楽世界からお迎えの人が持ってきた花を持って亡くなった話も出てくる。伊勢国飯高郡の一老婆(41)は、常に仏事に勤め、勤修にあたっては、香を買って郡中の寺々に供し、春秋には花に塩、米、木の実、野菜などをつけて僧にとどけ、長い間、極楽往生を求めていた。
 この女性が病になり、数日たって、子孫が重湯をたべさせようと起こしたとき、身につけていた衣服が自然に取れて、現われた左手に一茎の蓮花をもっていた。
 その蓮の花ビラの直径は20cm以上あり、とてもこの世の花とは思えなかった。色あざやかで、香りが溢れていた。看病の人が,この花の由縁を聞いたら、私を迎えにきた人が持ってきてくれたものだと語った。
 その後、すぐにこの老女は亡くなった。

▲極楽からのお迎えが現われる
 臨死体験では、多くの人が亡くなった近親者が現われるという。それらの人の中には、全く見知らぬ人の場合もある。極楽記においては、極楽からのお迎えが来る場合が多い。

 岡山の僧普照(12)は、ある夏を楞厳院ですごしていた。その夏の夜、麦の粥を寺中に施そうと湯屋にいたとき、良い香りが山中に広がり、妙なる音楽が空に聞こえた。このとき、普照が転寝の中で、一つの宝輿が山から西の方角を目指して飛び去るのを見た。その輿には、僧侶と楽人が左右についていた。
 そして輿の中には、楞厳院の僧が乗っており、夢から覚めた後、その僧が亡くなったことを知った。

 前述の楞厳院の十禅師尋静(14)の場合も、数十人の禅僧に護られた宝輿がお迎えに来た。このように禅僧がお迎えにくるケースは、ほかにも多く記載されている。
 
 延暦寺の沙門真覚(27)の場合は少し変わっていて、鳥が迎えにきた。尾長の白い鳥がきて、去来去来(いざいなむ)といった。孔雀がくることもある。
 源憩(35)の場合は、一羽の毛羽光麗な孔雀がきて、前を飛び舞った。
 前述した伊勢国の老夫人の場合には、美しい極楽の蓮花を持った人が迎えにきた。
 しかし亡くなった近親者がお迎えにきた例は極楽記には挙げられていない。

 このように見てくると、約千年後の20世紀末、ニューサイエンスにおける臨死体験の報告例に、千年前の極楽記の事例に類似したものがいくつもあることが分る。
 このように生涯をかけて極楽往生を目指した人々の記録は、もともと中国から始まっているが、日本でも「日本極楽往生記」を手始めに、多数の往生記がつくられた。首楞厳院の僧鎮源による往生伝「大日本国法華経験記」には、源信や慶滋保胤らは、ともに異相往生の人として、記録される側にまわっている。






 
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