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日本人の思想とこころ
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  (3)16世紀における後期倭寇

●後期倭寇の発生と展開
 16世紀の「後期倭寇」の活動が激しかった時期は、明の嘉靖年間(1522-1565)を頂点として隆慶(1567-1572)、万暦(1573-1619)の40年間である。
 嘉靖2(1523)年5月に、日本船の寄航先である寧波で、大内・細川両家の使者が互いに殺傷しあうという大事件が起こった(「寧波の変」)。
 その原因は、それまで足利将軍がもっていた勘合貿易の経営権が大内・細川氏に移り、さらに、細川氏には堺商人、大内氏には博多商人がついていて、それが貿易の主導権をめぐっての大騒動となったことであった。

 この騒動により対日感情は悪化したが、矛先は日本には向わず、このような倭人の暴状を許した市舶司大監の不手際に向った。そのため嘉靖8(1529)年には密貿易を取り締まる市舶司が廃止され、皮肉なことに一転して密貿易が隆盛に向うことになった。そのことからこの嘉靖2(1523)年の「寧波の変」が、「後期倭寇」の発端になったと考えられている

 後期倭寇の活動が最も激しくなるのは、嘉靖30年代(1551-)であり、1555年には年間の倭寇の回数が100回を越えている。このことから前期倭寇に比べると、圧倒的に倭寇の侵攻回数が増えていることが特徴である。
 また前期倭寇においては、朝鮮半島を中心に行動しているのに対して、後期倭寇は浙江、福建、広東など中国の南方を主要な活動領域にしていることも特徴である。

●中国人の密貿易商人 −倭寇王・王直
 ▲王直の登場

 「寧波の変」における倭人暴挙の取締りの責任をとり、官営貿易の監督をしてきた市舶司大監が廃止された。
 その直後の嘉靖10(1531)年の段階において、密貿易の取引場となっていた双嶼の海賊の頭領は、福州出身の海賊・李光頭と新安商人出身の許棟(きょれん)であった。このとき新安商人出身の王直は、出納掛をしていた。
 彼らは国禁を犯して2本柱の大型船を建造し、双嶼をその根拠地とした。

 嘉靖初期、中国の寧波沖合にある双嶼(そうしょ、リヤンポー:浙江省定海県六横島の西岸の港町)は日本、中国、ポルトガルの国際的密貿易の取引場となっていた。嘉靖22(1543)年以降、双嶼は繁栄の極となり、人口3000人の町に、ポルトガル人が1200人を占めるという異常事態になった。
 そして、それがさらに倭寇激化の原因になったことから、さすがの明政府も放置できなくなった。

 そこで嘉靖27(1548)年に、正義派の官僚・朱○(しゅがん)を浙江巡撫に起用して、沿海の取締りに乗り出した。嘉靖28(1549)年、朱○は悪の巣窟である双嶼を攻撃して壊滅させ、倭寇を操る密貿易者たちを取締まり、ポルトガル人を浙江、福建の密貿易基地から追放した。
 所謂、「海禁」である。これにより密貿易が出来なくなり、損失を蒙った悪徳海商たちは、監察官に働きかけ、朱○を自殺に追い込んだ。
 中国海商は、明の官兵の圧迫により、彼らの貿易の道をふさがれ、そのために暴力的な様相を強くしていった。
[○:糸偏に丸]

 この朱○による双嶼攻撃を免れた密貿易商人の大物が王直(または汪直)であり、これが後期倭寇の中心人物となる。
 王直は、安徽省歙(しよう)県の人である。はじめは塩商であったが失敗し、海上貿易商に転じた。嘉靖19(1540)年、海禁の緩みに乗じて国禁を犯して、葉宗満らと広東へ行き、大船を造って禁制品である硝石、硫黄、生糸、綿などを積み、日本、シャム、カンボジアなどを往復して密貿易を行なった。
 このことにより数年にして巨富を蓄えた。この嘉靖19年は、海寇の巨頭である李光頭、許棟らが福建の獄を脱出し、海上に逃れて密貿易を始めた年であり、後期倭寇史の上で注目すべき年になった。

 日本に渡航したことのある冒険家で、広東新安郡出身の鄭舜功の著書「日本一鑑」(嘉靖44)によると、王直は嘉靖24(1545)年、日本の博多津の倭助才門らを双嶼に誘引して密貿易を行なったといわれる。
 王直はこの頃、最大の海賊の頭目に成りあがり、日本に亡命して住居を松浦五島地方に置き、みずからを徽王と号し、許棟らの残党を集めて双嶼の組織の再建を図ったと見られる。

 彼の下には大首領の陳東・辛五郎なども加わり、日本人の直系の用心棒に門多郎、次郎、四助、四郎らの族党を配した。そのころ、許棟と並ぶ海賊に広東出身の陳思盻(ちんしけい)がいたが、この陳を殺して東シナ海を制圧した。

 この時期は朱○の海禁強行が失敗に終わった時期に続く時代であり、後期倭寇の行動が海禁政策と密接な因果関係を持つことを示している。

 ▲王直と鉄砲伝来
 種子島に鉄砲が伝来したことを伝える南浦文之の「鉄砲記」(1607成立)は、次の言葉で始まっている。
 「天文癸卯(12年1543)8月25日丁酉、我が西ノ村小浦に一大船有り、いずれの国より来たれるかを知らず、客百余人、その形、類せず、その語通ぜず、見る者以って奇怪となす、その中に大明の儒生一人、五峯(ごほう)と名づくるものあり、今、その姓字を詳にせず、・・・」。

 ここに登場する大明の儒生・五峯とは、実は、王直のことである。日本の戦国時代における戦争の様相を一変させた鉄砲の伝来には、驚いた事に倭寇王・王直が大きな役割を果たしていた。
 そのことから、「倭寇図巻」に描かれている倭寇たちは鉄砲を持っており、倭寇は当時、最新式の軍事装備をしていたと考えられている。

 王直は、嘉靖31(1552)年、封鎖された双嶼から、舟山列島の烈港に本拠を移した。この年4月、倭寇は浙江の台州、黄巌を侵し、定海を略奪した。
 「明史」によれば、さらに嘉靖32(1553)年3月、王直が諸倭を率いて大挙入寇した。数百隻の船艦をつらねて海上を蔽い、北は長江河口から、浙江の沿岸地方まで数千里の間を無人の境をいくように暴れまわった、と記されている。

 嘉靖34(1555)年春からの倭寇の侵攻はさらに激しく、ついには南京や蘇州の地まで荒らされた。さらに8月には、紹興に上陸した倭寇は、杭州を西へ向い、天目山の南麓から山河の幽境を通り、王直の出身地を荒らし、1昼夜に120キロを走り、2000キロを踏破。明人4-5千人を殺すという記録を作っている。

 ▲王直の死と倭寇の終焉
 王直に次ぐ倭寇の巨頭に徐海がいた。彼は、抗州にある名刹の僧侶出身といわれ、天差平海大将軍と称して海上に雄飛していた人物である。彼は主として薩摩・大隅党と組んで活躍していた。この徐海が、倭寇取締りの指揮官に新しく任命された胡宗憲の策略にかかり、嘉靖35(1556)年に殺害された。

 そして王直も、翌嘉靖36(1557)年、同じ宗憲の弁舌に乗せられ、五島から帰国したところを捕縛され、斬罪にされた。

 そのころから倭寇の侵略の中心は浙江から福建に移っていった。王直の死後、舟山列島にいた王直の残党は新たな巨艦を作り、福建の☆を拠点にして福建沿岸に鉾先を移した。しかしこの福建の倭寇も、興化府城攻略をピークに下火となり、1567年には国初以来の海禁も解かれて、倭寇は終息した。

 一方、日本の国内では秀吉の天下統一がなされて、出国が難しくなったことも倭寇終息の原因になった。






 
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