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  (2)関東大震災を振り返る

 そこでまず関東地方における巨大地震の最後のものとなっている関東大震災を振り返ってみよう。

 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、東京、神奈川、静岡、千葉、埼玉の1府4県を突然の大激震が襲った。この日は丁度210日の前日であり、朝早くから関東地方は暴風雨に襲われていた。それも午前10時頃にはおさまり、日が差し始めて蒸し暑い初秋の日が始まっていた。
 市民が昼食の用意をし、食卓につこうとしていたところを大地震が襲った。震源地は相模湾で、規模はマグニチュード7.9という巨大地震である。

 ちなみに関東地方を襲った巨大地震の震源地は、元禄16年が房総沖の海洋型、安政元年が遠州灘の海洋型、安政2年が江戸直下型である。
 次に関東を襲う地震として心配されているのは、安政元年に近い海洋型の東海大地震と安政2年と同じ東京直下型といわれている。

 そのとき天地は鳴動して、当時、出来上がったばかりの新築9階建ての丸ビルは、「怒涛にもてあそばれる木の葉のごとく揺れに揺れた」(「大正大震災大火災」講談社)といわれる。その後、人体に感じる余震は12時間で140回、次の12時間で88回、次の12時間で60回を数えた。

 地震で倒壊した建物としては、東京浅草の有名な12階が途中から折れたのをはじめ、大建築では東京・芝三田にあった日本電気の最新米国式・3階建て鉄筋コンクリートの工場が倒壊し400名が亡くなった。丸の内オフイス街でも建築中の内外ビルが崩壊して、300名が亡くなるなど多くの被害が出た。

 地震のあとには、今回のスマトラのような津波が関東各地を襲った。横浜では地震で地盤が数十センチ陥没して地割れができたところへ水道管が破裂し、水びたしになったところを津波に襲われた。
 更に横須賀、鎌倉なども震源地に近い上に津波の被害で全市が水びたしになった。また液状化で地中の水が地上にしみ出し、あふれ出てきた。

 特に被害を大きくしたのは地震による倒壊後に発生した大火災であった。
 火事は、東京においては地震発生の直後に市内76箇所から出火した。警視庁の発表によると、最初は風速17メートルであった風がその後烈風に代わり、水道が地震で出なくなったこともあり、焼失戸数411,000戸、判明死者74,000人、行方不明20万人以上という大惨事になった。
 なかでも有名なのは東京の被服廠の跡地であり、ここへ避難していた人々は、ここだけで5万人以上が亡くなった。

●関東大震災における対策
 不幸なことに関東大震災は政治的な隙間のようなところで起こった。
 地震直前の8月24日に総理大臣・加藤友三郎が病気で亡くなり、25日に主席大臣であった外務大臣・内田康哉が臨時首相に就任したばかりであった。
 後継内閣には山本権兵衛が決まり、組閣にかかっていたところで地震が発生した。そこで震災の翌日に急いで組閣をして、余震が続く中、2日夜7時、屋内は危険なため赤坂離宮の庭園の東屋で前代未聞の親任式が行なわれた。
 そのため2日までの地震対策は、内田臨時首相の旧内閣により行なわれた。

 新しい内閣総理大臣は山本権兵衛、内務大臣・後藤新平、大蔵大臣・井上準之助である。しかしこの不運な内閣は3ヵ月後に摂政宮を襲撃した難波大助による「虎ノ門事件」の責任をとり総辞職して清浦内閣に後を譲ることになった。そのため、内務大臣・後藤新平による本格的な大東京復興計画も、昭和通りをつくったくらいで竜頭蛇尾に終わった。

 東京・横浜という日本の政治・経済の中枢機能は、関東大震災による突然のアクシデントにより、何日もの間、殆ど機能停止に追い込まれた。
 まず銀行は9月1日から3日まで営業を全く停止した。突然の大災害により、企業や家庭でまず必要なものは緊急の際の資金である。しかしそれは銀行自体が大被害を受けているため、8日頃までは手持ちの資金によるしかなかった。被害を受けた企業や個人は、とりあえず緊急の資材の購入や緊急の支払いに迫られていたが、やむをえず手持ちの自己資金に頼るしかなかった。

 そこで9月2日に、国や地方の行政機関が被害者に必要な物資を調達する権限を与える非常徴発令と30日間の支払猶予を定めた支払猶予令が発令された。同時にこの日、災害地には戒厳令が発令されている。
 9月3日には日銀が営業を再開し、大信銀行のように営業再開する銀行も出てきたが、焼け残った6大銀行が営業を再開できたのは、ようやく9月8日になってからのことであった

 大震災のような災害の後には、資金や生活物資の需給関係が破壊されるために、資金が逼迫していた。そこで大蔵大臣・井上準之助は、経済混乱を避けるために、9月7日、1ヶ月間の支払猶予令(通称,モラトリアム)を実施した。更にその期限が切れる直前の9月27日に、震災手形割引損失補償令を施行して、日本銀行による震災手形割引の措置をとった。

 第一次世界大戦後の戦後恐慌により、日本経済は関東大震災が発生する前から既に危機的な状況に追い込まれていた。それはバブル崩壊後の日本経済がおかれている状況に極めて類似している。
 第一次世界大戦により、わが国は文字通り成金大国になり有頂天になっていた。日露戦争では巨額な戦費に対して賠償金が1銭も入らず、明治末期には外貨が完全に底をついていた。そこへ干天の慈雨のように、世界大戦による膨大な軍需が舞い込み、一挙に20数億円の正貨が流入した。その結果として、日本経済は大バブルに突入していた。

 しかし第一次大戦が終了した後の大正9年3月にそのバブル景気がはじけて、戦後の大不況に突入し、バブル期の不良債権が焦げ付いたままの状態で関東大震災が発生したわけである。
 関東大震災で失われた国富は100億から150億円という巨額に達した。

 この震災による損失を日銀が震災手形という形で保障したため、バブル期の不良債権はこの震災手形に形を変えて生き延びることになった。そしてこのことが昭和恐慌を深刻化させ、更にはその後の日本を満州、中国との戦争から第二次大戦へ発展する原因になった。

●内務大臣・後藤新平の震災復興計画
 後藤新平(1857-1929)は,岩手県水沢出身の政治家である。出身地が戊辰戦争における反政府軍の地域であり、しかも医学校出身の医師である。
 これは官僚・政治家としては大きなハンディを背負っての出発であったといえる。後藤は、幕末に先進的な思想をもち、最後には自決に追い込まれた蘭学者・高野長英の一族といわれるだけに、非常に斬新的な思想を持った政治家であった。

 最初は、明治に日本の医療行政の基礎をつくった内務省衛生局長・長与専斎に見出され、そのあとを継いで衛生局長になり、医療行政の道へ入った。
 明治という時代は、長州・薩摩という藩閥の力が強く、それ以外の出身者が官僚として出世することは、いかに能力があっても非常に困難な時代であった。しかし後藤は、その中で常に優れた上司に恵まれて、官界から政界への道を歩んだといえる。

 最初に後藤の政治的手腕に着目したのは、長州閥の中でも図抜けて優れた能力をもった陸軍次官・児玉源太郎であった。彼によって後藤は、日清戦争における帰還兵の検疫活動の責任者になり、更にその後、台湾総督になった児玉により、台湾政府の総督に次ぐ地位である民生長官に任命された。
 ここから後藤は、台湾・満州を通じて、植民地行政の政治家としての道を歩み始め、その後に東京市長をへて内務大臣になり、日本における行政のトップの座につく。

 後藤は台湾に続いて1906年に満鉄の初代総裁になり、満州の植民地経営にその手腕を発揮した。後藤は、この植民地経営における都市計画の経験を生かして、日本国内の都市計画に関わるようになった。それは、1916(大正5)年に寺内内閣の内務大臣兼鉄道大臣になってからである。その後、1920年に東京市長になった。

 当時、東京の都市計画(市区改正)は遅々としてはかどらない状態にあった。明治中期に山形有朋、井上馨、芳川顕正といった有力な政治家・官僚が示した東京の都市改革への関心は、大正期には既に失われており、後藤が市長になる前の東京市は、「『都市計画を有せざる世界的大都市』として内外から嘲笑される」(「大震災経済史」、68頁)状態になっていた。

 この状況を打破するきっかけになったのは、1919(大正8)年の都市計画法と市街地建築物法であり、これに後藤は東京帝大教授の佐野利器とともに大きく関わった。佐野利器は、大正・昭和戦前の建築界に君臨した学者であり、耐震構造の権威として知られている。

 1918年春、関西建築協会、都市研究会、建築学会の3会合同による都市計画法制定の請願を受け、後藤新平は内務次官・水野錬太郎に命じて、強引に予算を通し、内務省に都市計画調査会、内閣官房に都市計画課を誕生させた。 その結果、1919年に都市計画法と市街地建築物法が公布された。

 しかし都市計画の事業財源が確保されないために、府県や市はその実施に踏み切れないでいた。1921年5月に「東京市政要綱」が発表され、後藤市政のビジョンが示された。それは街路、下水、港湾、公園、学校、市場など、15項目のインフラ整備に7億5千万円を計上していた。
 これが有名な"8億円計画"である。

 しかし当時の東京市の年間予算は1億数千万円であり、政府予算が15億円という時代である。その実施は現実的には非常に困難なものであった。後藤の発想は人の意表をつくような優れた面が多いものの、少し桁が外れた面があり、彼のニックネームは「大風呂敷」といわれた。後藤は、くしくも関東大震災直前の1923年4月に東京市長の座を去る。
 しかし、その後2代にわたる東京市長には、後藤に非常に近い関係にある永田秀次郎、中村是公がなり、後藤の路線は引き継がれた。

 1923年関東大震災発生とともに後藤新平は副総理格の内務大臣として入閣し、日本における行政のトップの座についた。彼は一人で震災後の東京復興の方針を作り、直ちに実行に移そうとした。
 彼が目指したものは、単なる復旧ではなく、抜本的な都市改造であった。
 その方針は、1.遷都の否定、2.復興費用に30億円をかける、3.欧米の最新の都市計画を採用する、4.都市計画の実施に当たっては、地主に対して断固たる態度をとり、不当利得は許さない、というものであった。

 9月4日、後藤新平は閣議において彼の考え方を「帝都復興の儀」として上申した。その内容は、(1)帝都復興の基本政策を審議・決定する機関の設置、(2)帝都復興事業の国費による実施、財源は内外債による、(3)焼失区域の全域を一括買収し整理後、それを払い下げ、または貸し付ける、というものであった。
 この(3)が、「焦土全部買上案」といわれ、後藤ならではの大胆な構想であったが、内閣の賛同は得られなかった。

 後藤は、復興計画の策定と事業推進のために、省と同格の帝都復興院を設立し、自ら総裁を兼務して、12月の復興計画の確定まで職員は休日も返上し深夜業をしてプランを練り上げた。
 帝都復興費における当初の原案の41億円は、後藤の強い主張にも関わらず政府案では10億円に縮小してしまった。

 結局、この後藤の都市計画が後に残したものは、グリーン・ベルトを有する昭和通り(そのグリーン・ベルトも今はない)、わが国最初のリバーサイド・パークとしての墨田公園(その遊歩道も今はない)、不燃構造の小学校と同潤会アパートなどである。そして、それらもその後に大きく改悪されて現在に至っている。

 後藤新平が内務大臣として本気で取組んだ「帝都復興」も殆ど不成功に終わった。そして第二次世界大戦により再び焦土と化した後の復興においても、むしろ後藤の当時の都市計画を食いつぶして現在の東京はできあがってきた。
 その結果がどの程度まで危険な都市になっているかは、ドイツの再保険会社に聞いてみると良い。

(注)後藤新平の震災復興計画の項については、越沢明「後藤新平と震災復興計画」(東京人編集室編「都市のプランナーたち」、都市出版、所収)に大きく依存している。




 
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