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1. 日本経済の行方

11. 迫る東京・横浜大地震 ―その世界経済への影響を考える!

12. 関東大震災を本格的に救援したアメリカ ―近づく東京・横浜大震災後の日米関係を考える!
(1)運命の糸で結ばれた日米関係?(その1)
(1)運命の糸で結ばれた日米関係?(その2)

13. 構造偽装マンション問題を考える
14. 「建築の品質」とその管理について
15.日本のIT革命(第1部) ―その経過とNTT
16.日本のIT革命(第2部) ―ソフトバンクとライブドア
17.「小泉改革」とは何だったのか? −(その1)特殊法人「道路公団」の改革
18.「小泉改革」とは何だったのか? −(その2)郵政民営化
19.原爆と原発について考える!
20.公的年金制度の危機を考える −その暗澹たる未来!
21.ゼロ金利時代 ―金融失政の10年
 
  12. 関東大震災を本格的に救援したアメリカ ―近づく東京・横浜大震災後の日米関係を考える!

(1)運命の糸で結ばれた日米関係? (その1)

 「迫る東京・横浜大地震」で日本が大災害に見舞われた場合、日本がアメリカ国債を売っても売らなくてもアメリカ国債の価格は暴落するであろう、と書いた。そのとき私がもっていた日米関係のイメージは、頭は2つでも体や内臓は1つにくっついているシャム兄弟のそれであった。

 webを立ち上げた後で、波多野勝、飯森明子「関東大震災と日米外交」草思社、1999を読んだ。関東大震災を題材にした書籍は無数にあるが、災害をめぐる国際関係に絞ってまとめられた書物は少ない。同書を読んでいるうちに、太平洋をめぐる日米関係は、既に明治39年のサンフランシスコ大地震や大正12年の関東大震災にさかのぼって不思議な関係により結ばれていることが分かってきた。

 仮に近い将来に東京・横浜大地震が発生した場合、アメリカの在日米軍は勿論、国務省、国防省を中心にしたアメリカ政府は、太平洋におけるアメリカの最大の戦略拠点である日本の災害に対して準戦時体制により対処するであろう、と私は考える。
 おそらく米軍のシミュレーションとそのシナリオは既に出来上がっていると思われるが、その内容については日本人の知る由もないことである。

 しかしその対処の仕方は、関東大震災におけるアメリカ大統領を先頭にした日本救援への取り組みを見ると、1世紀の時間を越えて、日本に大災害が発生した場合のアメリカの対応姿勢が次第に見え始めるように私には思われるのである。

●関東大震災とアメリカによる救援活動
 関東大震災における横浜は、その震源が相模湾という近い距離にあることもあり、東京を越える壊滅的な被害を受けた。その上に地震後の火災により、宅地総面積の8割が焼失するという大被害となった。

 1923(大正12)年9月1日、大地震の発生と共に、東京・横浜間の電話はすべて不通になった。そのとき神奈川県警察部長・森岡二朗は、電話不通を知ると、すぐに海に飛び込み横浜沖に停泊していた東洋汽船「コレア」丸まで泳ぎつき、陸上の様子を無線で打電するよう指示を出した。この無線通信は銚子無線局をへて、福島県無線局が傍受している。
 福島無線局では局内で唯一、英語ができる局長・米村嘉一郎が、午後8時10分、サンフランシスコ、ホノルル、北京、平壌へ関東大震災の災害の第1報を発信した。そこでは「横浜は大地震に見舞われ通信機関全滅、同市に火災起こり火炎天に沖しつつあり。目下、これ以上の発信不可能」とかかれていた。

 カリフォルニア州マーシャルの米国無線通信会社に着いた電文は、直ちにワシントンに転送され、更にヨーロッパに伝えられた。
 このようにして、現地時間で地震発生と同日の午前中にはサンフランシスコで、更に午後にはワシントンで日本の大震災の号外が出された。

 驚くべきことに、アメリカ大統領クーリッジは、この報道をうけるや、直ちに日本救援のための積極的行動を開始した。クーリッジ大統領は、大正天皇に見舞い電報を送るとともに、次の3つの指示を出した。
(1)陸海軍への出動命令
(2)船舶局に対する指示
太平洋航路の汽船に対し、向こう1ヶ月の乗客、積荷の予約の取り消し、救済事業のための待機、更に日本を出航した船はUターン命令、
大手鉄鋼会社の所有船で極東にあるものはアジア艦隊の指揮下に入ること、など。
(3)アメリカ赤十字社への呼びかけ
フィリピン、中国駐留のアメリカ赤十字に対し、陸海軍と共に即時出発を命令した。

 更に、9月3日、6日の2度にわたり、全米に救済資金寄付の声明を発表した。この大統領による積極的な活動を受けて、震災の翌日には、駐日米大使ウッズが山本首相を訪問し、日本に対する救助を申し出た。
 また出動命令を受けたアメリカ・アジア艦隊の旗艦ヒューロンの艦長ケイガンは、大連の関東庁長官を訪問し、艦隊の一部の提供を申し出て伊集院長官を驚かせた。震災翌日の2日午後には、アメリカ陸軍省からマニラに駐在するフィリピン総督ウッドに対して日本への出動命令が出た。

 このようにアメリカ合衆国をあげての日本に対する支援活動が、震災の翌日から展開され始めた。その決定、行動の迅速さと施策の的確さには驚嘆させられる。
 その関東大震災から70年をへた1995(平成7)年1月17日午前5時46分、突然、関西地方を阪神・淡路大震災が襲った。その時に首相であった村山富市氏は、震災発生から6時間もの間、ほとんど直接行動をなにも起こさなかった。ようやく正午すぎになり、「死者203人」(その後、死者は6千400人以上と判明する)と聞かされ驚き、ようやく党内問題より災害復旧を優先させることに決定したほどの鈍感さであった。
 自国内で起こった大災害への対応さえこの程度であるのに対して、当時のアメリカ大統領を中心にした日本の災害救援への積極的活動は驚嘆にあたいする。

 9月3日のニューヨーク・タイムズは、「日本地震、死者10万」、「東京、横浜、名古屋全滅、罹災市民数百万」という見出しを出し、関東大震災を報道した。この日、駐日米大使ウッズは、東京市長・永田秀次郎を訪問して救助を申し出た。
 ちなみに関東大震災では、アメリカ大使館自体が火災により焼失しており、ようやくその日、帝国ホテル内にアメリカ仮大使館を設置して救済組織を置いたところである。そしてバーネット陸軍中佐を責任者に任命し、アメリカ人の安否確認、緊急救護活動やアジア艦隊の受け入れの業務を始めた。

 帝国ホテルは、フランク・ロイド・ライトの設計、大倉土木(現在の大成建設の前身)の施工により竣工したばかりであり、その日の正午に新館の開業式が始まるところであった。当日の式の準備は万端整い、来賓が会場に集まり始めたところを関東大震災が襲った。地震の瞬間はかなり大変であったが、建物の耐震設計にはいろいろな工夫が施されていて、大震災により倒壊もせずその上に火災も免れ、ライトの名声はこれにより一挙に上った。(犬丸一郎「帝国ホテル」)

 そのため震災後には、災害で建物を失った多くの政府機関が帝国ホテルを仮すまいにしており、アメリカ大使館もその一つであった。
 焼失したアメリカ大使館は、4日から帝国ホテルを仮すまいにして、早速、活動を開始していた。そして5日には早速、アジア艦隊の第一陣が横浜に到着した。当時の横浜はその波止場も大被害を受けており、艦隊の接岸も大変であったと思われる。

 9月4日には、日本ではようやく臨時震災事務局が内閣総理大臣の下で設置され、震災復興へ向けての取り組みが開始されたばかりである。このことから見ても、アメリカの対応がいかに早かったかが分かる。
 アメリカ大統領は、シカゴに滞在中であったアメリカ赤十字本部委員長ペインに代わり、委員長代理フィーザーに震災への義捐金集めを指示した。
 その予定額は、500万ドルである。ニューヨーク州知事スミスは、義捐金募集の声明を出し、5日の新聞に「日本を助けよう!」という全面広告を出した。

●震災により最悪の危機を迎えた日本の国際経済! 
 当時の日本の貿易や財政は、既に震災の前から危機的状態を迎えていた。震災の年である大正12年は、8月までに4億5千4百万円という史上最高の貿易赤字を出していた。そこを更に大震災が追い討ちをかけ、莫大な物資の輸入需要が起こったわけである。そのため輸入品の支払いのための正貨は極度に減少していた。

 1923(大正12)年11月末における正貨総額は、政府・日銀合わせて17.2億円であるが、このとき日本はまだ金解禁を行っていないため、国内からの金輸出は禁じられていた。そのため輸入品に対する支払には、在外正貨が当てられていた。その在外正貨は同月には、5億1千万円程度まで減少しており、急増する輸入品に対する正貨払い下げの要求に対して、政府が払い下げられる正貨はなんと1億6千万円という最低量に落ち込んでいた。

 この正貨保有量の減少は、為替レートにも影響を及ぼし始めた。ドルに対する円為替レートの推移を図表-1に挙げてみよう。


図表-1 円・ドル為替レートの推移(1912-1931)

 上表は、1912(大正1)年から1931(昭和6)年までの邦貨100円に対するドル価格の最高・最低値の毎年の推移を示したものである。
 この表を見ると、第一次世界大戦の前から震災の年まで、日本の外国為替レートは百円に対して50ドル近い水準を大体において安定的に維持していたことが分かる。
 ところが震災の翌24年からこの為替レートは急落し、24-25年には最低値は38ドルという史上最低の値まで低落した。つまり震災により円価格が大幅に下落したため、日本国民は震災の復興に必要な物資を2割以上高くなったドルで買わざるをえなくなったわけである。
 このような状況の中で、アメリカ国内で広がったドルによる支援募金は日本にとって非常に有難いものであったといえる。

 この貴重なドルを獲得するため、アメリカの大統領が率先して日本のために500万ドルの義捐金を呼びかけ、ニューヨーク州知事は新聞に全面広告を出して、「日本を助けよう!」と呼びかけた。
 しかし国際投機資本は日本の経済危機を見越しており、日本の公債、市債、社債の市場価格は大きく下落していた。これに対して、ナショナル銀行頭取は、5日のニューヨーク・タイムズにおいて「震災は日本の信用に影響しない」と発言をし、前駐日大使ウォーレンは、6日付けの同紙で「日本の極東における努力はゆるぎない」と述べた。

 またニューヨーク・タイムズ自体も6日の社説において、日本の震災の規模は大きいが、「いずれ遠くない将来、いっそう商業に適した都市が復興し、更なる商業活動と繁栄の時期に入るであろう」と述べ、アメリカの政界、経済界、マスコミは全力投球により日本支援を行っていたことが分かる。

 明治39年のサンフランシスコ地震の際には、日本は即座に10万ドル(最終25万ドル)を義捐金としてアメリカに贈っていた。しかし今回の被害はそれとは桁違いに大きかった。
 赤十字を中心とする義捐金募集活動は開始早々非常に活発に行なわれ、アメリカ商工会議所を始めとする各種の団体が積極的な募金活動を展開して、11月末までには総額1千60万ドルという驚くべき額が集められた。

 これに対して、大統領は「米国民が迅速にその災厄救済の挙に応じたるは、予の最も感激に堪えざる所」として「深甚なる謝意を表」したほどである。
 更に、このほかにアメリカの在留邦人も翌年の4月までに2百万円を超える義捐金を集めた。

 震災の翌年の10月、為替レートは対米38ドル2分の1という未曾有の安値をつけた。
 その翌月の16日、政府は『政府の海外支払に関する為替上の不利を緩和す』るため、声明書を出して、『内地に保有する正貨を必要に応じて海外に現送する』と発表した。
 この発表により国際投機筋は、日本が近々金解禁に踏み切ると判断し、これによりようやく円相場は上昇に転じて、45ドル近くまで戻したことが図表-1からも分かる。
 
 しかしこの為替レートが値を戻すのを待ちきれず24年2月に、政府は6分半利付米貨公債を1億5千万ドル、6分利付英貨公債を2千5百万ポンド、ニューヨークとロンドンにて募集せざるをえなかった。このときは対米レートが37ドルまで低落した段階であり、アメリカ公債は発行価格92ドル半で6分半利付き、イギリス公債は発行価格87ポンド半で6分利付きという不利な条件で発行された。そのためこれらの公債は、『国辱公債』といわれたほどであった。




 
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