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  (2)孔子と孟子が生きた時代

●現代に生きる仁義とは何か?
 孔子が生きた春秋時代(BC722-BC479)は、秦、楚、燕、斉、晋、呉、蔡、曹、宋、魯、衛、鄭、陳、周など、主要な国だけでも春秋12カ国といわれる多数の国々が覇権を求めて抗争を繰り返していた、動乱の時代である。
 また孟子が生きた戦国時代(BC478-BC221)も、春秋時代に比べると国の数は少し減ったものの、戦国7カ国といわれる秦、楚、燕、斉、趙、魏、韓などの国々が、中原に覇を競った戦乱の時代である。

 このように多数の国々が抗争に明け暮れていた孔子・孟子の時代は、仁、義、礼、智、信、・・・と、儒書が説くような、秩序立った理想の世界とは将に対極にあった、と思われる。つまり世界に規範がないために、逆に規範が強く求められた時代といえる。
 それはまさに多数の国家の内外で、常に紛争が絶えない現代の世界に限りなく似ている。

 その意味では、本居宣長が儒教を批判して「道あるところに道なく、道なきところに道あり」(道理、道理というのは、道理がないからである)といったように、孔子や孟子の春秋、戦国時代における現実の中国には、実際には、仁もなければ、義もなかった
 そのため、逆に、三皇・五帝から周の文王にいたる時代を理想化して、古来の秩序ある「道」が強く求められた。それが孔子や孟子の思想であり、当為の道であった。

 孔子、孟子の時代から2500年を経た20-21世紀の世界は、依然として日夜、多数の国々が抗争に明け暮れる戦乱の世界である。
 それは孔子や孟子が生きていた春秋、戦国の時代に、限りなく似ている。そこに孔孟思想が現代に生きる大きな意義があると、私は思うのである。

 中国の春秋、戦国時代は、BC770年に西周王朝の勢力が衰微して都が洛陽に移り、東周となったところから始まる。そして春秋・戦国を通じて東周王朝は続いてはいたものの、その勢力は非常に衰えていた。そのため乱立する諸侯は中国全土に小王国を作り、次の時代の覇権を巡って果てしない抗争を繰り返していた。
 それはBC249年に、西方の強国・秦が東周を滅ぼし、始皇帝が中国全土を制圧して、大秦帝国を建国するまで続いた。

 この周王朝末期の、政治的に戦乱に明け暮れた500年にわたる時代こそが、孔子・孟子が生きた春秋・戦国時代であった。それは政治的には最も乱れていたために、逆に多様で高度な思想が強く求められ、創造された。これが孔孟の時代である。
 それは覇権を求めて殺戮と破壊の規模を世界的に拡大し続けている現代世界に、限りなく似ている。

 唯一違うのは、現代の世界には「利」は存在していても、「仁」に相当する思想がないことである。キリスト教の「愛」は、中東の「異教徒」には全く及ばない!そのことを20-21世紀の世界史が証明してしまった。彼らには、異教徒がすべてテロリストに見え始めているように私には思える。
 21世紀に中国が勃興して、仮にも「仁」が生きる世界が実現すれば、中国による世界制覇は、ナポレオンが怖れたように21世紀の世界史の流れを一変させるであろう。
 そのようにうまくいくかどうか? それは、21世紀の中国の為政者が、墨子を取るか? 孟子をとるか? どちらを選択するか?にかかっている。

 ちなみに中国政府は、インターネットを使って中国の古典を原文で公開している。それに英語の翻訳をつけて、世界中の人々が中国の古典に直接接触できる場を作るという壮大な計画の下、中国思想の紹介が、いま急速な進展を見せている。

●ブッシュのイラク戦争に似た斉・燕戦争
 BC314年、孟子は中国東部の山西省の強国・斉の宣王を尋ねた。斉の宣王は、文学遊説の士を好み、学士の盛んなる事、将に数百、数千人といわれるほど学問好きな王であった 。

 その頃、斉の北隣の国・燕で内乱が起こっていた。そこでは、燕王の噲(かい)が大臣の子之を信頼して王位を太子・平に譲らず、子之に自分の王位を禅定した。そして自らは隠居して政務をとらず、子之の家臣になった。
 このため燕の国は大いに乱れ、太子・平は、将軍・市被とともに貴族と結んで兵を起こして内乱に発展した。その内乱は数ヶ月に及び、太子・平や将軍・市被までが戦死する乱戦となった。

 BC314年、この乱戦に付け込み、隣国・斉の王であった宣王は、将軍・匡章に命じて斉の5都の軍を動員し、更に北方民族と通じて燕国に侵攻した。
 斉軍の燕への侵攻は、当初は内乱に悩まされていた燕の民衆による支持・歓迎を受けて、わずか50日という短期間で斉は燕の全土を征覇した。
 斉軍は子之を殺して塩付けにし、燕王・噲(かい)を殺して首都を占領した。そして、そのまま占領軍として燕に居座ろうとした。
 そこで燕の人民は太子の平を立てて君主とし、これが昭王となった。さらに、斉による燕の占領により、勢力均衡が壊れる事を怖れた梁・韓・秦などの諸国は、趙とともに斉に圧迫を加えるべく行動を開始し、燕の国内でも斉に対する反感が起こり始めた。

 これらの状況は、2千数百年をへたブッシュのイラク戦争に極めて類似している。燕の占領行政の存続については、斉の国内でも賛否両論があり、世論は真っ二つに割れた。丁度、そこへ孟子が現れたので、宣王は早速、その問題を孟子にもちかけたわけである。
(梁恵王章句下、第10章)

 この宣王の相談に対して孟子は次のように答えている。
 周りの国々は、前から強大な斉を恐れています。その強国・斉は、このたび燕を占領したことにより2倍もの大国になりました。
 その大国の王が、仁政を行なわずに暴虐を行なえば、周りの国々は燕の救援を口実に連合して、斉を攻撃するでしょう。それは王が自分から求めて、天下の大軍を動員させるようなものです。

 王様!今からでも遅くありません。直ちに捕虜の老人や子供を家に帰し、伝来の宝物を元通りにして、燕の民衆と相談して適当な君主をたてて、軍隊を引き上げなさい。
 そうすれば周辺国の諸侯も燕を救う口実がなくなり、総攻撃も避けられるでしょう。
  
 しかし宣王は、孟子の助言に従わなかった。その結果、斉の占領軍は燕の人民の反抗にあって、総退却を余儀なくされた。その後、孟子と宣王との感情は冷え込み、孟子は斉を去ることになる。その間で孟子と宣王との不和にいたる感情の行き違いについては、公孫丑章句上下に詳しく述べられている。






 
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