アラキ ラボ
日本人の思想とこころ
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1.死の予感
2.身近な他界 -日本庭園
3.日本人と死後世界
4.美人の死後伝説
5.孔孟思想は21世紀に生きられるのか?
6.秦帝国と呂氏春秋
7.四書五経の形成 ―新儒学への展開
8.朱子学と近思録
9.陽明学と伝習録

10.東洋医学と黄帝内経素問
(1)東洋医学と西洋医学はどこが違うのか?
(2)中国古代の自然哲学と医学
(3)診断と治療―その考え方

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  10.東洋医学と黄帝内経素問

(1)東洋医学と西洋医学はどこが違うのか?
 戦中、戦後の日本では、夏には赤痢、疫痢などで避病院に隔離される人が相次ぎ、冬になると虱による発疹チフスや肺炎が猛威を振るった。さらに、飢えによる体力の衰えにより若者の結核が大流行して、これらの恐ろしい感染症が私たちの生命を脅かし続けた。

 そのような状況の中、敗戦により日本に上陸してきたアメリカ軍から提供されたペニシリンやパスなどの抗生物質は、驚くほどの薬効を見せた。これにより日本国民は敗戦の悲哀と共に、欧米医学の発展とそれに対する日本医療の遅れをいやというほど見せ付けられ、西洋医学に対する信頼はいやが上にも増していった。

 日本の制度的な医学の分野では、明治16年10月23日に、医師免許規則が太政官より発布された。そのため西洋医学による医術開業試験を受けて、内務卿より開業医免許を得たものでなければ開業できなくなった。ただしそれまでの開業医には、一応既得権は認められたが、漢方の医師はその後は凋落の一途を辿った。

 しかし戦前の日本の家庭医療の方は、富山の薬売りに象徴されるような漢方薬を中心にしたものが普通であり、かなりひどい場合にのみ近所の町医者へ行った。大病院などの利用は、手術でも受けない限り、まず普通の家庭には無縁であった。
 つまり日本の家庭医療では、明治以降も江戸時代からつながる漢方の恩恵にあずかっており、当時の新聞広告などを見ると分かるが、漢方医学(=薬学と伝承)が日常生活の中に大きくはいりこんでいた。

 学問としての漢方も、済生学舎出身の青年医師・和田啓十郎が、明治43年にのちに東洋医学復興の導火線になった名著「医界之鉄槌」を著し、さらに、昭和3年に金沢医学専門学校出身の医師・湯本求真が漢方医学の大著「皇漢医学」全3巻を発表した。
 同年1月には東洋医道会が東京で発会式を挙げ、昭和11年には日本医学研究会が生まれ、同13年には東亜医学協会が発足していた。
 また昭和9年には日本漢方医学会が結成され、月刊誌「漢方と漢薬」が刊行されて、昭和20年まで続いた。つまり東洋医学は、学問分野でも明治以降、敗戦まで細々と続いていたのである。

 この状況を一変させたのが、敗戦による生活環境の悪化と、占領軍による西洋医学の導入である。この状況変化により、従来の東洋医学は一挙に権威を喪失していった。それは明治維新による近代医学の導入の第2波とでもいうべきものであった。
 しかしこの状況は、1950年代に入ると大きく変り始めた。そのきっかけになったのは、東大法学部の有名教授が、歯医者で虫歯治療のため受けたペニシリン注射によるショックで、急逝する事件であった。このことにより、抗生物質など夢の新薬は、ショック死の危険性を持つという事態を、日本国民は知ることになった。

 さらに、抗生物質に対する耐性をもった細菌やウイルスが出現して、抗生物質が段々効かなくなってきた。そして一時は、殆ど絶滅したかと思われた結核の患者が、またぞろ現れ始めた。
 一方、西洋医学の分野では、目覚しい発展の結果として、医学の専門分野がさらに細かく再分化される方向をとり始めた。その上、病状診断に対して計器による物療的な検査を偏重して、患者の愁訴を軽視し、医師と患者との間の対話が少なくなっていった。
 その結果、病気の多様化、複雑化に西洋医学は対応できなくなり、医療の治癒効果よりも、マイナス効果のほうが増大する結果になっていった。

 このような西洋医学のマイナス効果の増大により、一時は殆ど無視されていた東洋医学に対する関心が急速に高まり、最近では日本の医師たちの4割が東洋医学に関心を持ち、漢方薬の利用が拡大しているといわれる。
 しかし、その割には実際の医療分野において、東洋医学の考え方や方法が利用され始めたようには見えない。その理由は、西洋医学と東洋医学は、その考え方や方法論が全く異なるため、簡単に利用しあうわけにはいかないことにあると思われる。
 そこで一体、どこがどう違うかを、まず簡単に考えて見たいと思う。

 両者の最も大きな違いは何か。西洋医学は医療の分野と方法を細分化して、分業・協業により、個別領域で効果を上げていこうとしている。これに対して、東洋医学では、人体を一体化して総合的に効果を上げていこうとしており、中耳炎の患者に対しても腹をさすらないと治療方針が決められないとする、根本的な考え方の相違がある。
 その考え方としては、どちらも必要であり、2兎を追う方法もないわけではないが、実際にそれを実行することは、それほど簡単ではないであろう。

 例えば、現在の日本における西洋医学の方向を見ると、医療の分業化は、例えば「内科」一つをとっても、消化器、呼吸器、循環器、・・・と大きく分かれ、それらがさらに細分化されて専門化しつつある。それらの細かい分野が、それぞれ学界を設立して研究が進行していくと、1人の医師がその全体に通暁することは、殆ど不可能になる。
 有力者が病気になれば、医師団が結成されてある程度は的確な治療体制が期待できるが、普通の人の場合、的確な治療は運を天に任せるしかない。

 この点、東洋医学の場合には、本来、人体を総合的に捉えて治療計画をたてる点は大きく評価できるものの、医療における分業・協業という観点からの個別医療の掘り下げは、まだ原始的な段階を脱していないというのが実情であろう。

 日本の場合、西洋医学の過程を終了した医師でなければ、東洋医学の医師としての仕事に従事できない。従って、うまくいけば、両者の長所を組み合わせた新しい医療制度や方法を採用することが可能であるにも拘らず、実際に、それは非常に難しい課題であると思われる。
 経済学の場合、日本では学問領域がかつて近代経済学とマルクス経済学に大きく分けられて、互いに不干渉で平和共存していた。その結果は、学問的には双方になんのプラス効果も生み出さなかった。
 大きく考え方が異なる学問分野は、その間で人生をかけるほどの切磋琢磨があってこそ、そこから真に有用な理論や方法が生み出されるといえる。

 そこで本稿では、そのような観点から、中国古代医学の理論書である「黄帝内経素問」(こうていだいけいそもん)を中心にして、東洋医学の考え方と方法の基本について考えて見たいと思う。




 
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