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日本人の思想とこころ
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1.死の予感

11.仏教伝来のナゾ
12.インド仏教の成立
13.陽明学を体系的に理論化した?西田哲学

14.明治の新思想 ―儒学からキリスト教へ
(1)日本の陽明学とキリスト教
(2)明治初期のキリスト教と儒教
(3)明治絶対政府とキリスト教
 
  14.明治の新思想 ―儒学からキリスト教へ

(1)日本の陽明学とキリスト教
 
江戸時代のわが国において、国教の位置を占めたのは儒学であった。それに対してキリスト教は、国禁として厳しく取り締まられていたことは誰でも知っている。しかしそのご禁制のキリスト教に対して、儒教の一派である陽明学が実は非常に類似する面が多くあり、しかもそのことを江戸時代の人々も気づいていたことについては、あまり知られていない。

 それは明治の文明開化における新思想のさきがけとしてキリスト教が入ってきたとき、最初にキリスト教に強い関心を示した人々に、陽明学の人々が多かったことからも分かる。そのことは大橋健二「良心と至誠の精神史―日本陽明学の近現代」勉誠出版の、第3章明治のキリスト教に詳述されている。

 同書から江戸時代のキリスト教と陽明学の関連に関する記述を見ると、近世日本における朱子学の開祖の林羅山が、陽明学における熊沢蕃山の学問を、邪教・キリスト教であると批判したことが知られている。
 林羅山によると「熊沢なるものは、備前羽林の小臣也。妖術を持って聾盲を誣ふ。聞く者迷いて悟らず、多く約結して、ようやく党与(=仲間)為すにいたる。志を同うせざる者は、晤語(=語り合う)するを肯んぜず、大底耶蘇(キリスト)の変法也」(「草賊前記」)。また「彼(蕃山)の説の勧善多種なる、耶蘇の教ふる所と、以って異なるなきか」(草賊後記)。とも述べている。(大橋「上掲書」126頁)

 また蕃山の師の中江藤樹が唱えた上帝思想は、陽明学における「天」を越えて、キリスト教的な人格神の特性を備えており、桜美林学園の創設者・清水安三の著書「中江藤樹」(東出版、昭和42)によると、「藤樹は、キリシタンであった」と断言されているほどである。
 このような中江藤樹、熊沢蕃山の著書から得られる陽明学的素養が、明治初期の日本のプロテスタントの信仰受容における土壌となったといわれる。

●陽明学からキリスト教へ -明治初期のキリスト者たち
 明治初期に陽明学からキリスト教に入信した人は非常に多い。大橋氏の前掲書は、その事例を詳細に記している。ここではそのうちから、明治初期のキリスト者として高く評価されている、札幌バンドの内村鑑三、横浜バンドの植村正久、熊本バンドの海老名弾正についてみてみよう。

 ▲内村鑑三(札幌バンド)と陽明学
 内村鑑三は、後に述べる「一高不敬事件」で知られる無教会派のキリスト教徒であり、「代表的日本人」をはじめとする多くの著書で知られている。

 宗教家・内村鑑三(1861-1930)は、高崎藩士の子として東京に生まれた。クラーク先生で有名な札幌農学校に入学し、在学中にキリスト教に入信した。開拓使御用掛・農務省嘱託を経て渡米し、アーマスト大学に学んだ。その後、社会運動にも参加して、無教会主義を唱え「二つのJ」、つまり日本(Japan)とイエス(Jesus)に仕えることを念願とした、いわば愛国主義的なクリスチャンともいえる人物である。 

 内村は、自著「代表的日本人」のなかで、西郷隆盛(新日本の建設者)、上杉鷲山(封建領主)、二宮尊徳(農民聖人)、中江藤樹(村落教授)、日蓮上人(仏教僧侶)の5人を軍人、政治家、農民、教育者、宗教家を代表する日本人として描いている。そのなかで西郷と中江が陽明学派であるとされている。

 そこでは西郷と陽明学について、次のように書かれている。「彼(=西郷)は若くして王陽明の著書に心を引かれた。数あるシナの哲学者の中でも、王陽明は、良心に関する高遠な学説と、やさしい中にもきびしい天の法則を説いた点で、同じくアジアに起こった、かの尊厳きわまりない信仰であるキリスト教に最も近づいたものである。その後の西郷の書いたものには、王陽明の影響が、はっきり現れている。そこに流れるキリスト的な情操を見て、われわれは、それが王陽明の偉大で簡潔な思想から生じたものであり、また、王陽明の思想を自分の性格となるまで消化して、それを実行に移した西郷の偉大さを示すものであることを知るのである。」と述べており、王陽明の思想が朱子学とは異なり、キリスト教に似ていると記している。

 つまり内村は王陽明について、「良心に関する高遠な学説」と「天の法則」を「偉大で簡潔な思想」を以って説いたとして、陽明学が「進歩的、前進的で、将来性に満ちた」思想であり、「キリスト教に似ている」と評価している。(大橋健二「前掲書」143頁)

 内村は、陽明学について次のように書いている。
 「旧幕府が自己の保存の為に助成した保守的な朱子学とは異なって、陽明学は進歩的前望的にして希望に充てるものであった。それが基督教に似ていることは従来一再ならず認められた所である。事実、その事も一つの理由となって基督教はこの国において禁止せられたのであった。『此れは陽明学に似ている。我が国の分解(?ママ)は此れを以って始まらん』。維新の志士として有名な長崎の軍略家、高杉晋作は、長崎にて初めて基督教聖書を調べて、そう叫んだ。基督教に似た或るものが、日本の再建に参加した一つの力であったということは、我維新史における特異なる一事実である。(隅谷「近代日本の形成とキリスト教」、著作集第8巻、21頁)

 また隅谷三喜男氏は、内村の見解に関連してつぎのように書かれている。
 「陽明学は反封建闘争において積極的な役割を演じたのみならず、キリスト教理解に対しても、『その道筋をまっすぐにする』役割を果たしたのである。」(隅谷著作集第8巻、21頁)

 ▲植村正久(横浜バンド)と陽明学
 
内村鑑三の有名な「一高不敬事件」に対して、キリスト者の立場から内村以上にきびしく明治政府の姿勢を批判したのが植村正久である。
 植村正久(1857-1925)は、日本キリスト教会の牧師であり、江戸の出身、横浜でブラウンに学び入信した。一致神学校卒業後、伝道生活に入った。明治20年、一番町教会(のちの富士見町教会)を創立。終生、牧師として合理的自由主義神学・日本主義キリスト教の台頭に対して、正統派福音主義信仰の確立に尽力した宗教家として知られる。

 植村は、「王陽明の『立志』」(「福音新報」明治27.5.25)という評論を書いている。それによると、儒教は「品性(キャラクター)の学問」であり、その学問の目的は、「好個の紳士(ジェントルマン)」「模範的紳士」を作り出すことにある。しかし、時代の経過とともに朱子学において顕著なように「外好みを飾り、偽善を装い、礼儀三百威儀三千、腕を張り肩を聳やかして君子を真似るの徒のみ、多く出で来る」に及んで、儒教はすっかり堕落していった。 

 しかし植村は、陽明学はこの堕落した儒教のなかで「聖人学」であることを認識した。「普通の儒書をおいて陽明集を読めば、なおあたかもマコーリを読みてカーライルに移るごときの心地す。・・・彼の学問は孔子学にあらず、普通にいわゆる儒学にあらず、ただ『聖人学』なり。なんとなれば、孔子およびその末流の学問、教育、品性等の中には、王陽明のごときアスピレーションあればなり。これすなわち彼の学問が他のために異端視せられたる所以なるか。」(「植村正久著作集 2」新教出版社、399-400頁)と書いている。

 つまり「植村は、陽明学を『一種の宗教』であるとして、キリスト教と同列においた」<(大橋「前掲書」165頁)のである。

 ▲海老名弾正(熊本バンド)と陽明学
 熊本バンドからでて後に同志社大学の総長にまでなった海老名弾正(1856-1937)は、福岡県の出身。熊本洋学校でジェーンズに指導され、1876年にキリスト教に入信した。 同志社大学に転じ卒業後、伝道活動に専念した。1897-1920年の間、本郷教会の牧師となり、説教家として知られた。神道と融合した日本的キリスト教を唱道した。1890年に創刊した雑誌「新人」で、植村正久らの正統派と論争した。1920年から同志社大学の総長を務めた。組合教会の主導者でもある。

 海老名は、中江藤樹のことを「基督の福音を聞かずして既に基督教会の長老」と断言しており、その門人の熊沢蕃山からも強い影響を受けた。彼は、16歳で入学した熊本洋学校において、「忠孝の衝突」というまさに儒教における深刻な危機に直面した。
 そして「まさかの時には、親を捨て、家を捨てる決心をした」。
 戸主として家を継ぐと思っていた彼の父親は、息子の心変りを察して怒り、洋学校を退学して家に戻るように厳命した。海老名は、「翌日改めて父に暇乞して、親不幸者との宣告を負うて熊本へ行った」。この覚悟は蕃山の「集義和書」により決めたといわれる。(渡瀬常吉「海老名弾正先生」89頁)

 海老名にとって、熊沢蕃山は「キリスト教への改宗に跳躍台を提供した」(吉馴明子「海老名弾正の政治思想」東京大学出版会)とされるほどの影響を与えており、さらに蕃山の師・中江藤樹に対しても、「凡ての儒者中で最も宗教的である」として、深い関心を持っていたといわれている。(大橋「前掲書」133頁)

 また隅谷著作集にも、上記の内村鑑三に続き海老名における陽明学とキリスト教理解について、次のような引用がされている。
 「予(=海老名)が基督教へと向って難関を切り抜けたのは、実学(=陽明学)的見地を胸に抱いていたからである。朱子学は、親を三度諌めて聞かざれば泣いて従がうと教えたが、実学は、良心を基本として天下国家を論じたから、天下国家のためには親に背いても進み行く活路が会った。(その上)横井小楠は『宋の朱子』から出発して『四書』に遡り、更に、『五経』に到って遂に天に到達した。天を上帝に人格化し、天が我が心を見、天が我を保護する。・・・予をして天に向わしめる指南となった。(かくて基督教を知ったとき)儒教でいう上帝、旻天と、基督教でいう神とは同じではないか。結局は同じところに帰着するのだと思った」(渡瀬、「上掲書」90頁)

 これだけ見ても、明治初期の3バンドの中心人物のすべてが、陽明学からキリスト教への道筋を辿っていたことが分かる。それは「良知」、「知行合一」など、陽明学がキリスト教のうちでもプロテスタントと、思想、行動などにきわめて類似点が多く見られたことにあるといる。しかし儒教とキリスト教を一般的に考えて見ると、必ずしもそうともいえず、次に熊本バンドの小崎弘道による儒教論をあげる。






 
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