アラキ ラボ
題名のないページ
Home > 題名のないページ1  <<  32  33  34  >> 
  前ページ次ページ
 

(3)明治絶対政府とキリスト教

 小崎の著書が出版された明治19年に続く明治20年代の政府は、その政治形態を絶対主義ドイツにならった専制君主制を採用し、思想的には「忠君愛国」を軸とした日本的儒教の体制を選択した。それが1889(明治22)年の大日本帝国憲法の発布であり、さらに、翌1890(明治23)年における「忠君愛国」を歌い上げた教育勅語の発布になって現れた。
 これにより小崎が、前記の著書で提言したわが国における社会環境は明治20年代には大きく変貌し、キリスト教は根本において明治政府と矛盾・対立する思想になった

 明治「新時代」とはいいながら、明治政府とキリスト教思想の間には、決定的な矛盾が生まれてきていた。それを象徴する事件が、明治24年に起こった内村鑑三の不敬事件である。それは明治24年1月9日、第一高等中学校(のちの一高)の始業式に際して、教師内村鑑三が天皇の親筆自署のある教育勅語に対しきちんと拝礼しなかったとして起こった。この事件をきっかけとして、保守派の人々は時こそ至れとキリスト教に対する攻撃を開始した。

 この事件が問題化した当時、病床にあった内村は、誤解をとくため同僚・木村俊吉を自分の代理人として、改めて勅語に敬礼をせしめたが、もはやそのようなことは問題ではなくなっていた。天皇の神聖化のためには、キリスト教はもはや邪魔者になっていた。それは戦前に猛威を振るった多くの宗教弾圧の始まりでもあった

 当然のことながら、内村が改めて勅語に拝礼したことについては、キリスト者の側からは逆に黙視できないことであった。たとえば植村正久は、主宰する「福音週報」50号の社説に、それに対する批判文を掲載した。
 その中で、プロテスタントの人々は、キリストの肖像にすら礼拝することを好まない。それにも拘わらず「何故に人類の彫像を拝すべきの道理ありや。 吾人は上帝の啓示せる聖書に対して低頭礼拝する事を不可とす。また之を屑とせず。何故に今上陛下の勅語にのみ礼拝をなすべきや。」と書いた。 (隅谷三喜男「天皇制の確立とキリスト教」著作集第8巻、136頁)
 それは国際的なプロテスタントの思想的立場からする正論であり、明治政府に対して真っ向から反論するものになった。

 植村正久の「福音新報」は、51号に押川方義、植村正久等5名の名をもって「敢えて世の識者に告白す」という上記と同一主旨の公開状を掲載して抗議した。そのため「福音新報」は政府から発行禁止の処分をうけることになった。明治政府によるキリスト教弾圧の始まりである。
 明治25年1月には、熊本洋学校の一教師が、学校の教育方針は博愛主義であると演説したことから、非国家主義として攻撃され、知事はこの教師を罷免する事件が起こった。また熊本の或小学校長は、児童が教会に出入りすることを禁止し、聖書を所持していた1人の生徒を退学にする事件も起こった。

 当時、「教育勅語衍義」を表していた哲学者・井上哲次郎は、教育勅語の精神は国家主義であり、キリスト教はこれに対して無政府主義である。「唯一神教たるヤソ教は到る処激烈なる変動(革命)」の推進者であり、社会秩序を乱すものとして激しく攻撃した。このような状況からキリスト教信徒の増加数は、明治21年には年間7400人であったものが、27年には2900人にまで激減したといわれる。(隅谷「同上書」138頁)

 このような状況を背景にして、文部省は公然とキリスト教に対する干渉に乗り出した。1899(明治32)年、文部省は全国の所管学校に次のような訓令を出した。「一般の教育をして宗教の外に特立せしむるは学政上最必要とす。依て官公立学校及学科過程に関し法令の規定ある学校に於いては課程外たりとも宗教上の儀式を行なうことをゆるさざるべし」(原文のカナをひらがなに修正)。

 欧州列強に対して遅れて登場した日本の帝国主義は、思想的にも国際的に世界に認知される必要から、最初はキリスト教に対して積極的に導入する姿勢を示していた。しかし明治20年代に入り、自由民権運動への対抗の中から、欧化主義への反動として国粋主義が台頭し、キリスト教排斥の動きが強くなった。
 たとえば小崎弘道は、自著「70年の回顧」の中で、同志社在学中の明治23年から30年まの7年間が、「基督教教育の最も困難なる時であった。伊藤内閣の瓦解後黒田内閣成立するや、欧化主義の反動として国粋保存主義盛に起り、排外的精神は到る処猖獗を極めたから、基督教は勿論、英語を排斥するものが少なくなかった。殊に23年11月末日に教育勅語が出て以来宗教と教育の衝突論が起り、基督教主義の学校を排斥する者多く、為に同志社にても生徒は減少し学校の維持は困難を告ぐることになった。」(92頁)と書いている。

 さらに、この明治30年代に始まったキリスト教への弾圧がようやく緩和されたのは、1928(昭和3)年のことであった、といわれる。昭和3年3月15日には、全国で共産党員の一斉検挙が行なわれた。いわゆる「3.15事件」である。
 この段階において、日本の国家的脅威は、キリスト教からさらに、社会主義や無政府主義、また宗教でも小規模の原理主義に変っており、キリスト教はより過激な思想に対する緩衝機構に転化していた。

●日本帝国主義の破綻とキリスト教 ―キーマンとしての西田幾多郎
 
明治から昭和にいたる歴史を見ると、政界・官僚組織・財界など日本の支配層は、総ぐるみで国家の重要な危機的問題を常に先送りしてきた。その状況は、平成大不況の中で昭和時代からの不良債権問題を先送りし問題を深刻化させ、さらに公的機関の不良債務問題を未だに先送りしている現代の日本に極めて似ている。
 既に明治末年、日本の財政は国家破産の危機に直面していた。この危機から日本を救ったのは、国を挙げての自助努力ではなく、ヨーロッパで起こった第一次世界大戦であった。戦場がヨーロッパを中心に戦われたため、日本は被害をほとんど受けず利益だけ享受することができた。

 その戦争のおかげで、常に輸入超過であった日本の国際収支は一挙に改善されて輸出超過になり、膨大な外貨を獲得することができた。しかし、それは輸入超過の原因になっていた経済体質を改善したわけではなく、大戦が終結した途端に深刻な経済危機が日本を襲った
 さらにそれに追い討ちをかけた関東大震災により、日本経済は大正末年から昭和初年にかけて、再び国家レベルでの深刻な経済危機に直面した。それが昭和恐慌である。 昭和2年の昭和恐慌は、大蔵大臣・高橋是清のモラトリアムという緊急処置によって一応の終結をしたが、依然として日本経済の虚弱体質は残したままであった。 
 それが「金解禁問題」である。昭和恐慌からの小康を得て、日本経済が金本位制に復帰し、いよいよ世界の経済市場に進出しようとした昭和4(1929)年11月、日本はアメリカに端を発した世界大恐慌の大波に再び飲み込まれることになった。

 つまり1920年代の末葉、大日本帝国は日露戦争の戦後処理以来、先送りしてきた国家経済が、世界恐慌と昭和恐慌の中で、もはや先送りできない状況になり、完全に破綻状態に追い込まれていた。その国家危機は、1930年代以降、満州事変に始まる15年戦争とその破綻に直結していく。

 この1930年代、日本のキリスト教の運動は大きく変貌を余儀なくされていった。
 まずキリスト教の教派ごとの運動に対して、キリスト教諸教派、諸団体、関係ミッションの協力組織である日本基督教連盟が、次第にキリスト教界の代表機関のような性格を持つようになっていった。

 30年代、連盟は満州事変(1931年6月)、上海事変(1932年1月)の平和的解決を世界に訴えた。しかしその元凶である軍部、政府に対して連盟は何も言わなかった。そして満州国建国(1932年3月)、国際連盟脱退(1933年3月)、など、日本の満州植民化政策を是認し、前にキリスト教精神の具現とした国連からの脱退をやむなしとして、国際的信用の回復や親善を説いた。
 国内問題としては、国家神道との対決を避け、「国策に順応し、これを弁護することに終始」するようになった。「連盟は絶えず政府の意向に気を配り、政府の側に立って、その国策を補完するキリスト教を民衆に向って語るという姿勢を持つ」ようになっていった。(土肥昭夫「日本プロテスタント・キリスト教史」新教出版社、344-345頁) 

 日本のプロテスタント運動を創出した人々は、1920-30年代にかけてあいつで亡くなっている。海老名(-1937)、植村(-1925)、内村(-1930)、小崎(-1938)である。
 わが国の儒学において、「忠孝」1本の思想は朱子学から展開され、「至誠」の思想は陽明学によって展開されたといわれる。(竹内義雄「儒教の精神」全集第4巻)
 その意味では、明治国家がよりどころにした儒学は、江戸時代以来の伝統的朱子学であったといえる。そして明治以来の儒学思想が、さらに展開された昭和の国家主義のよりどころも朱子学であり、日本的ファシズムが支配する中で、陽明学=プロテスタントの立場は抑圧されていった。

 キリスト教の側でも、当時、ドイツ教会はナチズムの術中に陥り、危機に瀕していた。これに対する抵抗運動が、M・ニーメラーらにより起こされ、K・バルトがその抵抗運動の理論的指導者になっていた。このK・バルトの神学(弁証法神学)が、1930年代の日本に導入され、キリスト教界に大きな影響を及ぼしていた。バルト神学は、多くの日本人たちの関心を集めたが、その中に西田幾多郎、三木清、波多野精一などの哲学者がいた。

 西田幾多郎は、戦前の日本的朱子学の全盛時代において、密かに陽明学の体系的理論化を行なった哲学者として私はその見直しをしてみた。実は、西田哲学はその一方でバルト神学の方からも高い評価があり、陽明学とバルト神学の両面から西田哲学は、いま一度見直してみる価値があるように考えている。






 
Home > 題名のないページ1  <<  32  33  34  >> 
  前ページ次ページ