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日本人の思想とこころ
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  (2)文久3年以降の薩摩藩 −公武合体から倒幕へ

●文久3年・薩英戦争 −薩摩の敗北と転換
 文久3(1863)年は、従来の幕府によるなし崩しの開国路線が行き詰まり、朝廷による「攘夷」路線が活発化して、それまでの日本の外交における2重路線が完全に行き詰まった年である。
 そのため、幕府は5月10日を「攘夷期限」と約束し、「攘夷」に踏み切らざるをえなくなった。

 さらに幕府を追い詰めるために、長州藩は5月10日、下関において米、仏、蘭の艦船に対する砲撃に踏み切った。

 既に2月以降、この動きとは別に、日本とイギリスの関係は非常に緊迫化しており、戦争勃発の寸前にまで来ていた。
 その理由は、前年の8月21日に島津久光が生麦で引き起こしたイギリス人殺傷事件(生麦事件)への日本側の謝罪、賠償が進んでいないことにあった。
 その賠償金については、イギリス政府と幕府との間で、文久3年3月に前年5月の東禅寺における英兵2人の殺傷事件を含め、11万ポンドの支払いが決定していた。
 しかし薩摩藩の賠償はまだそのまま残っており、そのため5月8日にはイギリスの艦船2隻が品川沖に現われ、ほとんど戦争直前の状態になった。
 それに驚いた日本側は、老中の小笠原が独断でメキシコドル44万ドルを支払うという事件まで起こしていた。

 それに加えて長州藩が攘夷運動として、5月10日に米、仏、蘭の艦船に砲撃を開始し、当然、それに対する西欧諸国の軍事報復が予想された。
 その6月、イギリスの代理公使ニールは、薩摩藩に対して生麦事件への代償として、島津久光の首、賠償金の支払い、イギリス軍艦の鹿児島への派遣を幕府に要求してきた。これに対する薩摩藩は、朝廷と幕府に対し攘夷の決行を通告した

 薩摩藩は、前藩主・島津斉彬以来、軍備を中心にした海防政策には諸藩の中で最も力を入れてきていた。そして島津久光も、生麦事件を起こす前から砲術の研究・訓練を盛んにしており、軍需工場の集成館における青銅砲の鋳造や砲台・のろし台の建設などが行なわれ、イギリス艦隊の来航に対する防衛対策が進められていた。

 久光は、藩士の結束を強めるために重臣たちの意見を聴取しつつ台場の築造を行い、イギリスから購入した天佑丸、永平丸(=1月に明石海峡で沈没)、青鷹丸、アメリカから購入した白鳳丸という大型蒸気船を保有し、台場の守備隊の数は5000人、ゲーベル銃と火縄銃3千丁以上を備えて国土防備の当たっていた。

 そこへ文久3(1863)年6月23日朝、7隻のイギリス軍艦が横浜を出航して鹿児島へ向った。既に、薩摩藩ではイギリスの攻撃を想定して、5月はじめから陸海の軍事演習を繰り返してきているなかの6月27日、厚い雲に覆われ蒸し暑い中をイギリス艦隊は鹿児島沖に現われた。
 7月1日の戦闘の始まる前に、薩摩藩が所有する3隻の蒸気船は、いち早くイギリス海軍に拿捕、焼却されてしまい、薩摩藩は大きな衝撃をうけていた。

 折りしも襲来した暴風の中、台場に近づいたイギリス艦隊は砲撃を開始し、台場は破壊された。薩摩藩の台場の砲門も開かれ、艦隊側にも大きな被害が出た。
 しかし薩摩側の被害はさらに大きく、鹿児島城下から集成館、鋳銭場など、民家350余、藩士の居宅160戸が焼けた。翌日は昼ころから艦隊の砲撃は始まったが、艦隊の中に機関の損傷を受けたものがあり、予想に反してあっけなく午後4時頃には全戦闘が終了した。
 
 横浜においては、画期的といわれるアームストロング砲を搭載したイギリス艦隊と、時代おくれの青銅砲や火縄銃で戦う薩摩藩の戦争の勝敗は明確であることから、イギリス海軍により薩摩は一挙に圧伏させられると思われていた。
 ところがその戦争では、イギリス側が旗艦「ユーリアラス号」の艦長を始め60名の死傷者を出し、艦も大きな損傷を受けた事が分かり、外人たちは非常な衝撃を受けた

 しかし薩摩藩側も「ユーリアラス号」の砲の射程距離や破壊力が圧倒的に優れていることに驚嘆し、軍事的な攘夷運動の非現実性を思い知らされていた
 島津久光は、もともと公武合体論の立場をとり攘夷には一定の距離をおいていたが、この薩英戦争を契機にイギリスとの和議を締結し、攘夷よりは公武合体への方向をとり始める。
 それが8月18日の会津藩と薩摩藩による公武合体の連合クーデターになり、それにより長州藩が締め出しを食うことになる。

 8月13日、攘夷親征の議が確定・公布され、長州藩による攘夷路線が確定するかに見えたが、8月18日、突然、朝廷では京都守護職・会津藩主・松平容保と公武合体派の公家と薩摩藩の兵たちによる公武合体派のクーデターが起こり、攘夷親征の中止、攘夷派の公家の参内禁止、長州藩の締め出しが決定した。
 このような動向に安心した幕府が仲介して、年末にはイギリスと長州藩の和議が成立した。そのときイギリスは、「ユーリアラス号」のような優れた船を購入したいという薩摩藩の提案に驚嘆させられた。なんという薩摩の変わり身の早さか!

 島津久光の思想は公武合体と倒幕との間を揺れ動いていた。久光は、もともと徳川慶喜を擁立して公武合体して幕藩体制を強化する事を考えていたと思われるが、翌元冶元年頃から、倒幕路線に変わり始めたように見える。
 久光は、元冶元(1864)年3月9日、慶永、宗城らと朝議参与の辞表を提出した。その理由は、「横浜鎖港不可」とする久光の提案を無視して、朝廷が横浜鎖港の朝命を下したことにある。
 攘夷は最早、不可能と考える久光に対して、幕府も朝廷も冷静な判断が出来ない状態になっていた。4月18日、久光は大久保一蔵以下の従士を従えて京を離れ帰国した。

 久光をはじめとする有力な公武合体派の諸大名が一斉に去った京都では、再び長州藩の動きが活発化し、攘夷派の活動が激しくなった。6月5日夜の新撰組による池田屋の変は長州藩を刺激し、京に兵を進めて朝廷を手中に収めようとした。危機感を持った幕府は、薩摩藩に出兵を依頼してきたが、薩摩はこれを拒否した。

●西郷隆盛の登場と薩長同盟
 ▲西郷隆盛の登場
 この頃から、尊王攘夷派として久永の不興を買い、沖永良部島に流されていた西郷隆盛が帰藩し、政治の表舞台に登場してくる。
 西郷はこのとき38歳、元治元(1864)年3月、上京して軍賦役に補せられ、久光帰郷にあたり後事を託されて、事実上、薩摩藩の代表者の地位についた。
 この頃の京では長州藩の尊王攘夷派の活動が激化し、6月5日の池田屋の変をへて6月27日には伏見の長州邸の兵が入京し、禁門の変に発展した。
 この禁門の変において薩摩軍の奮戦は目覚しく、薩兵と西郷の勇名がとどろいた。

 西郷は、薩藩軍賦役として陣頭指揮に立ち、さらに、第1次長州征伐においては、征長総督が前尾張藩主・徳川慶勝、西郷は参謀長に決まった。西郷は探偵を長州に潜入させており、長州藩の保守派を利用し、また支藩の離藩を強めて、長州とは戦わずして勝つのを上策と考えていた。
 この長州人に長州人を処置させる西郷の方策が成功した。11月18日、総督は長州藩の謝罪恭順を認め、18日に予定されていた進撃を中止した。

 この頃、幕府の政治中枢の機能は、殆んどどん底に落ち込んでいたようである。そのため幕府は、第1次長州征伐の成功は幕府の威光によるものと勘違いし、翌年には再度の長州征伐を計画していた。
 また、水戸の天狗党の攘夷陳情に対して、幕府による誰が見ても明らかに人間性を逸脱した取り扱いが明らかとなり、人心は急速に幕府から離れつつあった。
 この状況をみて、慶応元(1865)年に西郷も幕府を見放し、長州藩と手を組んで倒幕への路線に切り替えたように私には思える。

 ▲長州藩における正義派の進出
 元治元(1864)年12月中旬から慶応元(1865)年1月にかけて、長州藩では高杉晋作らが保守的な俗論派の藩庁に反旗を翻し、12月16日に長州藩の下関新地役場を襲撃・占領した。
 正義派の拠点は殆んどが瀬戸内側にあり、これに対する俗論派は日本海側の地域を拠点としていた。これは明らかに経済的な先進・後進地域に対応しているものである。そのため慶応元年正月から始まった長州藩の俗論派と正義派の内戦は、正義派が圧倒的な勝利を得て、1ヶ月余りで終わった

 これ以降長州藩の正義派は、尊王―倒幕―開国の路線を明確にして進み始める
 高杉晋作はいう。「赤間関(下関)も、我断然国体を愧しめざるよう開港すべし。然らざれば、幕薩は申すに及ばず、遂には外夷の妖術に陥るならむ。五大州中へ、防長の腹を押し出して、大細工を仕出さなば、大割拠は成就致さざるならむ」。(小西四郎「開国と攘夷」360頁)

 「大割拠」とは、一朝有事の際に備えて藩内に立てこもり、富国強兵を謀る考え方のことである。つまり長州藩は、尊王攘夷で西欧の4カ国と実際に戦火を交えたことにより、「攘夷」の非現実性に目覚めた。
 そして倒幕―富国強兵―開国への新しい路線に切り替えた事が分かる。
 しかしそれは1藩ではどうしようもないことであり、同じようにイギリスと戦火を交えて「攘夷」の非現実性を知った薩摩藩と手を結ぶことになる。その仲介の労をとったのは、土佐の坂本龍馬であった。

 ▲薩長同盟の成立
 長州藩は、倒幕をめざして密かに米、蘭、英の「死の商人」から武器の購入を進めていた。その代表的な相手が、オペラ・蝶々夫人で有名な長崎に住んだ英貿易商人・グラバーである。グラバーは安政6(1859)年に22歳で来日し、諸藩への艦船武器類を販売するグラバイー商会により、長崎最大の貿易商人となった。

 長州藩への武器は九州の諸藩の名を借りて行なわれており、長崎藩が慶応元(1865)年5月に武器を購入した概算は、装条銃1800挺、剣銃2000挺、金額合計46400両であり、これがさらに薩摩藩を経由して、長州藩に納入されたと見られる。
 また慶応元年7月に長崎に派遣された井上聞多と伊藤俊輔は、長崎で密かにグラバーと会見して、薩摩藩の名義でミニエー銃4300挺(77400両)、ゲベール銃3000挺(15000両)、合計7300挺(92400両)の契約を結んだ。
 これも長崎藩が薩摩藩から買い入れる契約をした船で、長州領内へ運び込まれた。

 薩長同盟は、このようなイギリス商人が間に入り、秘密裏に行なわれた武器の購入により形成されていったと思われる。さらにそれを薩長の同盟までもっていたのは、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎と見られる。
 慶応元(1865)年5月、坂本は小松帯刀とともに長崎へ行き、そこの「亀山」に「社中」を作り海運事業を開始した。これが後の「海援隊」に発展する。
 この坂本は、元治元(1864)年8月、初めて西郷に会った。そしてその後、西郷の薩摩藩と長州藩の提携を積極的にすすめ、慶応2(1866)年1月にようやくそれが成功した。これにより薩摩・長州の倒幕軍事同盟が出来上がった。

 第1次長州征伐のときには、敵対的関係にあった薩摩・長州は、第2次長州征伐のときには同盟関係に変わっていた。そして薩摩の大久保は、第2次長州征伐への出兵要請を拒否する。そのため、そのような状況で行なわれた第2次長州征伐において、幕府軍は散々な敗北を喫する事になる。

●最後の将軍・徳川慶喜
 慶応2(1866)年には、公武合体の象徴ともいえる将軍・家茂と孝明天皇が相次いで亡くなり、倒幕は一挙に進み始める。それは倒幕派にとってはまさに絶妙のタイミングであり、今に至るまで将軍、天皇の暗殺説の絶えないわけである。

 まず第2次長州征伐において幕府軍が敗退を続けている最中の7月20日、将軍・家茂が大阪城で脚気衝心により21歳という若さで死去した。
 そのため7月29日、徳川慶喜が将軍職を継承することがきまり、8月1日には勅諚をもって慶喜の徳川家相続を仰せいだされたが、慶喜の希望により正式の大命はその時は下されなかった。
 慶喜は、自ら出陣して戦局を挽回してから、将軍になる事を考えていたようである。しかしその間に九州小倉城の落城の報が入ったため、止むを得ず、9月1日に到り長州藩との和解の道を選んだ。

 ようやく慶喜が将軍になったのは、慶応2(1866)年12月5日のことである。ところがその直後の12月25日に、今度は倒幕派嫌いで公武合体に凝り固まっていた孝明天皇が、突然崩御された。
 病気は痘瘡であり、17日に診断が確定し、その後の経過は良好であった。それが25日未明になり突然容態が急変し、午後11時頃崩御になった。
 かつて「歴史学研究」誌上に、当時の何人かの医師の記録が詳細に発表されたことがある。その死は明らかに異常であり、倒幕派による毒殺の疑いが濃厚である。
 
 明治天皇はその時16歳。「践祚」は翌慶応3(1867)年1月9日、清涼殿の代わりに小御所で行われた。そして中山忠能、大原重徳、岩倉具視など、公武合体派に処罰されていた公家たちは一斉に幽閉を解かれ、政治活動の自由を得た。

 この朝廷の変貌により、西郷がすすめていた薩摩、越前、宇和島、土佐の4侯の連合計画は有望視されるようになり、島津久光もこれに同意した。
 この4侯会議は、5月上旬から始められたが、土佐は佐幕の色彩が強く、松平慶永も土佐に同調したため会議は行き詰まり、5月下旬には解散してしまった。このことは諸侯会議というような非武装的手段による倒幕は不可能である事を示した。

 一方、徳川慶喜は、早速、大幅な幕政、軍政改革に着手し、更に幕府の機構を外国に倣った官僚制度の導入を始めていた
 そこへ、土佐藩が大政奉還論を提言してきて、慶喜はこれにのった。これは慶応3(1867)年6月、土佐の坂本龍馬と後藤象二郎が、船で長崎から京都に向かった時、船内で坂本が作った「船中八策」と呼ぶ新しい国家構想をもとにしている。

 それは第一に、政権を幕府から朝廷に奉還させ、朝廷が中央政府を構成して、政令は朝廷が出すこと、第二に上下議政局を設け、議院が政治のすべてに参画し、政治は公議によって決める事など、立憲制に則った近代的な統一国家の樹立を考える画期的なものであった。この坂本案を後藤が日本的な現実案に修正した。

 後藤案は、列藩会議のかたちをとり、武力倒幕をさけ、将軍が自発的に大政を奉還し、将軍は列藩会議の議長に就任する。
 徳川本家の権威は持続させるが、朝廷による1元政治にするというものであった。
 山内容堂もこれなら賛成であり、後藤らはこの案を慶応3年10月3日に老中に提出し、大政奉還を説いた。
 将軍・徳川慶喜はこの土佐案にのり、慶応3(1867)年10月14日、大政奉還の上表を朝廷に提出した。朝廷は翌日、これを承認し、混乱を避けるため、慶喜に対して将軍の職務をこれまで通りに果たすように命じた。






 
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