アラキ ラボ
日本人の思想とこころ
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  105  106  107  >> 
  前ページ次ページ
  (3)大政奉還と王政復古

●王政復古と恭順する慶喜
 大政奉還が無事に行なわれて困るのは、薩摩、長州など武力倒幕を謀る倒幕派の諸藩と公家たちである。
彼らは既に10月8日に京都の薩摩藩邸において王政復古の謀議を行い、武力倒幕の勅命降下の請願を出していた
 しかし幕末においても、多くの諸侯は本気で武力による倒幕など考えてはいなかったと思われる。従がって最も現実的な政治路線は、慶喜が考えていた土佐方式による列藩会議であったと思われる

 しかし武力倒幕をはかる薩摩、長州と岩倉など倒幕派の公家たちにとっては、ここで幕府による大政奉還が成功して、徳川慶喜を中心にした諸侯会議が出来てはたいへん困る。
 そこで慶喜が大政奉還を行なった日に、正親町三条が屋敷に大久保、広沢を招き、倒幕の勅書を与えた。これがいわゆる倒幕の密勅である。しかしその密勅なるものは、形式、手続きなど不審な点が余りにも多く、偽勅の可能性が非常に高い。
 しかしこの怪しげな「密勅」は、薩摩、長州と彼らに引き込まれた芸州の兵たちに「官軍」のお墨付きを与え、逆に幕府軍を賊軍に陥とした。

 慶応3(1867)年12月8日、岩倉は薩摩、土佐、芸州、尾張、越前の5藩の代表各2名を招き、王政復古の勅旨を伝えた。そして翌日、明治天皇は王政復古の大号令を発し、幕府の廃絶、慶喜の将軍職の解任、領地の返納を宣言した。
 ところがまことにフシギなことには、この重要な宣言は将軍・慶喜には直接伝えられなかった。そして翌9日になり、尾張の元藩主・慶勝と越前の前藩主・松平慶永が二条城に慶喜を訪ねて、この大号令なるものの主旨を伝えるという、全く信じられないほど手続きや礼を無視したやり方で行なわれた。

 当然のことであるが、この常識を無視したやり方に、二条城にいた会津と桑名の兵たちは激怒して、これを薩摩藩の陰謀として攻撃しようということになった。
 そこで朝廷側は長州藩に上京を命じて、長州・薩摩と幕府軍の戦争に突入しそうになった。このとき慶喜は、京の二条城にとどまると武力衝突が不可避になると考え、その夜、ひそかに大阪城に移った。

 慶喜は「尊王」の伝統ある水戸藩の出身であるため、言い分はいろいろあっても、朝廷に対してはあくまでも恭順であり、その態度はその後も徹底していた。
 そのため幕府が、長州と薩摩を相手に本当に武力で立ち上がったとすれば、いくら幕府の力が衰えていたとはいえ、日本を2分する大戦争に突入したと思われる。
 その時、最も危険な事は長州、薩摩の後ろにはイギリスがついており、幕府の後ろにはフランスがいたことである。
 そこで外国の軍事力が介入してくることは必定であり、そのため日本は深刻な植民地化の危機にさらされることになったであろう。
 慶喜は、そのことを真に恐れていたのではないかと私には思われる。

●戊辰戦争 ―江戸時代の最終戦争
 江戸時代の最後の年になる慶応4(1868)年の正月は、幕府と薩摩藩の戦争から始まった。この戦争は、慶応4年の干支が戊辰であったことから「戊辰戦争」と呼ばれる。発端はその前年の12月に、江戸城の西の丸が炎上したことに始まる。
 幕府はこれを浪士の仕業として、薩摩藩に犯人の引渡しを要求した。しかし薩摩藩がそれに応じないため、幕府は1000人以上の兵力を動員して、12月25日に三田の薩摩藩邸を襲撃して炎上させる事件が起こった。

 ▲鳥羽・伏見の戦い
 この事件は直ちに京都に飛び火した。そして年が明けた慶応4(1868)年1月2日、京都の幕府軍は、会津と新撰組の麾下の兵8000人が伏見街道において、また桑名などの兵500が鳥羽街道において、薩摩藩の軍に対して軍事行動を起こした。
 いわゆる鳥羽・伏見の役である。これによって江戸時代の最後の内戦となる「戊辰戦争」が始まった。
 この幕府の軍の数は、薩摩藩の兵力を遥かに上回っていた。しかしフシギなことにこの戦争は、幕府軍の散々な敗北により終わった。

 東京日々新聞社会部編「戊辰物語」によると、1月3日から6日まで続いた鳥羽伏見の合戦が幕軍の総崩れになった理由は、官軍の洋服鉄砲の軍隊に対して、幕府軍の鎧兜に陣羽織の軍隊が槍をもって名乗りをあげて立ち向かった事にある、と書かれている。(岩波文庫版、「戊辰物語」30頁)。
 しかし徳川慶喜は、フランスの兵器や調練法を好み、フランス公使のロッシュは幕府顧問を務めていた。彼はナポレオン3世の寵臣であり、幕府の軍隊はフランス風の軍備を整え、訓練も受けていた筈である。

 薩英戦争で薩摩藩が驚いたアームストロング砲も、幕府は既に購入して保有していたはずである。それらがこの戊辰戦争では全く活躍している様子がない。これは全くフシギなことである。
 さらに、薩摩・長州の軍は、2月3日に天皇親征で幕府征討の大号令が出るが、有栖川熾仁総裁宮を東征大総督とする「官軍」の実体は、天皇の軍隊は1人もいるわけではなく、薩摩と長州の軍に過ぎない。
 いわゆる「密勅」なるものは、慶喜に直接伝えられたものではなく、きわめて「偽勅」の可能性の高いものであり、幕府としてみると薩摩、長州の東征軍を途中で迎え討つことが出来たはずである。
 それにも拘わらず、慶喜は2月12日には江戸城を放棄して上野寛永寺に移り謹慎した。つまり東征軍を薩摩、長州軍と考えず、「官軍」として処遇したわけである。

 そして2月15日に有栖川宮は、節刀を授けられ、京都を進発した。将軍・慶喜の考えはともかく、幕府を構成する旗本や諸侯は将軍・慶喜に同調できるとは限らない。それらの勢力が東征軍に反抗した戦いが、戊辰戦争の後半部分を構成する。
 3月14日、高輪の薩摩藩邸において勝海舟と西郷隆盛の会見が行なわれ、江戸城開城の合意がなされた。

 ▲江戸開城と彰義隊
 慶応4(1868)年4月4日、東海道先鋒総督・橋本実梁と副総督・柳原前光は、勅使として参謀・西郷隆盛以下、30余名を従がえて江戸城に入った。そして田安慶頼を通して、慶喜に水戸幽居を命じ、江戸城、軍艦、銃砲の接収などの勅旨を伝達した。
 江戸城の兵器は納められて肥後藩がこれを守り、江戸城の管理は尾張藩が行なうことが決まった。そして4月11日、尾張藩の大将分3名が官軍側から乗り込み、大奥まで改めて封印のままで受け渡しを終わった。

 4月11日から翌日にかけて討幕軍は江戸に入った。その総勢力は14000であったといわれる。(井原頼明「禁苑史話」283頁) そして慶喜は水戸へ移った。
 しかし4月11日、あくまでも主戦論の幕府の海軍副総裁・榎本武楊は、勅旨による引き渡しを拒否し、艦船8隻を引き連れて品川を出て、館山へ向った。

 上野の彰義隊が、頭取として旗本の渋沢成一郎、副頭取を・天野八郎(上州の庄屋の次男)を選挙で選び、東叡山寛永寺を屯所として結成されたのは、2月23日のことである。最初は江戸市中の巡回警護、徳川慶喜の護衛を目的にしていた。
 しかし慶喜はあくまでも恭順の立場をとっており、4月11日には水戸に移っていった。残された上野の彰義隊は、段々に人数が増えて1番隊から18番隊の大部隊となり、総勢3000人近い勢力になっていた。

 勝海舟が山岡鉄太郎を派遣して隊の解散を命じたが、それを拒否して上野の占拠を続け、官軍と彰義隊の紛争がいたるところで起った。しかし彼らは江戸市民の支持をうけており、逆に官軍は嫌われていた。
 戊辰の年は4月の次が閏4月であり、4月が2ヶ月間続いていた。西郷はそのまま彰義隊を放置し、いろいろ手を尽くして解散させようとしていた。しかし長州の大村益次郎が軍務局判事として着任すると、事態は急展開した。
 
 彰義隊に対する官軍の攻撃は、雨天の中、5月15日の早朝から始まった。装備の差は如何ともし難く、大砲を使った官軍の攻撃により、彰義隊の側は無数の死者を出して夜までに鎮圧された。16,17日に残存した浪士たちの抵抗が若干あったが、すべて討ち取られた。幕府軍の死体はそのまま打ち棄てられ、夏の暑さの中で腐敗し悲惨を極めた。見かねた三河屋幸三郎という侠客が円通寺に埋葬し、江戸市民は密かにお参りしたという。(「戊辰物語」267頁)

 ▲奥羽・北越戦争
 奥羽地方では、既に慶応4(1868)年3月に会津藩主・松平容保が仙台・米沢藩主を通して謹慎の意を示し、征討の停止を朝廷に願い出ていた。
 しかし薩摩、長州はそれを許さず、そのため5月3日に奥羽越列藩同盟が成立した。そのため奥羽・北越の「列藩同盟軍」と、薩摩・長州の「連合軍」の戦いとなり、戊辰戦争は奥羽・北越地方に舞台を移した

 3月、薩摩・長州の連合軍は奥羽鎮撫総督に九条道孝、副総督に沢為量、参謀に大山綱良、世良修蔵を任命し、会津・庄内2藩の征討を目的として、白河口、平潟口、越後口の3方から攻撃を開始した
 総督は白河口が岩倉具定(のちに鷲尾隆聚、正親町公重)、平潟口が正親町公重、越後口が高倉永○(示へんに古)であった。
 まず薩摩・長州の連合軍は、出羽に入り庄内を攻めたが「列藩同盟軍」に阻まれ、窮地に陥った。5月に入り、ようやく白河城を奪回し、6月に帰順した秋田城を官軍の拠点にする事に成功した。

 越後口では、5月に高倉永祐が総督になり、副総督・四条隆平、参謀・山県有朋、黒田清隆で河井継之助が率いる長岡と激戦になり、5月19日にようやく長岡城の攻略に成功した。
 しかし7月24日に河井継之助は、会津、桑名、村松、米沢、新発田の藩兵の応援を得て、大挙官軍を夜襲して長岡城を奪回した。
 総督・小松宮が柏崎の本営から増援軍を派遣して7月29日に再び長岡城を奪回し、その戦闘で河井は戦死した。その後、北越の戦況は官軍の側が有利となっていった。

 奥州同盟軍のほうは、東叡山寛永寺で彰義隊を助けた輪王寺宮公現法親王を同盟軍の軍事総督に奉じ、公議府を白石城内に設け、「奥羽北越同盟軍政総督府」の名でもって討薩の激を飛ばし、各国の公使館にも書を送って薩摩、長州の非を責めた。
 しかし白河口、越後口の戦況が官軍の側に有利に展開するようになると、同盟軍の側に離脱する藩が出始めて、9月末には奥州同盟は瓦解の状態になり、最後に残ったのが会津庄内であった。

 8月20日、板垣退助、伊地知正昭らの兵と薩、長、土、大垣、佐土原、大村の各藩兵が、二本松から会津若松城下に進撃した。8月23日には若松城東北の外郭も落ち、24日に若松城は完全に包囲されて、藩兵は城に立てこもって戦う状態になった。会津若松城の戦いは、それから1ヶ月に及び、その間に9月4日に米沢藩、9月15日に仙台藩、9月26日に庄内藩が帰順した。

 しかし会津藩は、老幼婦女子にいたるまで戦闘に参加できるものはすべて篭城して良く戦った。しかし9月には遂に糧秣弾薬がなくなり、9月22日、松平容保父子が城を出て妙国寺にはいり、ついに9月24日、若松城が陥落した。
 同じ日に庄内藩、米沢藩も官軍の軍門にくだり、東北奥州の戦闘は終結した。有名な白虎隊の悲劇は、9月23日に若松城の外郭が陥ちたときに起こった。

 ▲五稜郭の戦い
 奥羽連盟の兵を挙げて戦っていた仙台・米沢・会津の諸藩は、慶応4年7月に榎本のところへ使者を出し来援を求めた。榎本は8月19日、兵2千人を8隻の軍艦に乗せて品川を出発して東北へ向ったが、途中、台風にあい2隻を失い、ようやく8月26日に仙台領寒風澤についた。
 しかし間もなく仙台藩が官軍に下ったため、榎本は旧幕府歩兵奉行・大鳥圭介等、2500余名と共に北海道へ向い、明治元(1868)年(9月8日に慶応から明治に改元)10月20日に鷲木港に上陸した。榎本は函館で松前藩の福山城を陥とし、北海道全島を占領した。

 榎本武揚は、蝦夷島総裁に選ばれ、陸海両軍奉行、開拓奉行をおき軍政、民政を定めて、政府を組織した。これに対して明治政府側は、明治2(1869)年2月、清水谷公考を総督、黒田了介を参謀として、青森に参集していた軍を4月9日に北海道乙部村に上陸させた。
 北海道に上陸した官軍は江差を落とし、松前福山をへて函館に逼った。榎本軍は良く戦った衆寡敵せず明治2年5月11日、函館は陥落し、18日に北海道は平定された。
 
●版籍奉還
 ▲ある日、突然、「攘夷」が「開国」に変わった!
 明治維新の大義名分として揚げられていた「尊王・攘夷」の「攘夷」は、明治政府が成立した途端に「開国」に変化した。「開国」は、もともとペリー来航により、世界情勢に目覚めた幕府が、従来の「鎖国」政策を転換して始めた新しい政策である。
 それに対して、終始反対して「鎖国」した古い体制を維持しようとしたのは朝廷側である。考えて見ると、「王政復古」で神武天皇の太古の体制に戻そうという平田派神学も、反幕府側思想の中心をなしていた。
 ところがある日、それがころりと変わって「文明開化」になった。真面目に考えていると、夜明け前の青山半蔵のように、それについていけないほど無責任な思想の断絶がそこにはある。

 ▲忠節を尽くすべき「尊王」の「王」とは誰であったのか?
 江戸時代に忠節を尽くすべき「王」とは、諸侯、つまり「藩主」であった。それを最も日本人に考えさせてくれたのは、江戸時代最後の「戊辰戦争」であった。
 その一つの典型が会津戦争である。

 会津の藩主・松平容保は、京都守護職まで務めた「尊王」の志の高い人であった。ところが幕末に朝廷に謹慎の態度を示したのに、それを、朝廷を上に戴く薩摩、長州に拒否されて、朝敵として討たれることになった。
 そのとき会津の人々は、女子供、老人にいたるまで若松城にこもり、朝敵となる道を選んだ。この場合の「王」は、明らかに藩主であった
  
 戊辰戦争において、将軍・慶喜は朝廷をたてて、将軍として朝廷と戦う道を一切とらなかった。それでも彰義隊や榎本武揚の連合軍は、「将軍」のために官軍と戦った。ここでの「王」は、明らかに「将軍」である。
 つまり私が、尊王―敬幕―忠藩といっていた三段階の「尊王」が、幕末のぎりぎりの段階で、個人個人がその選択を迫られることになったのである。

 では倒幕派は、この問題が明確であったか?というと必ずしもそうではない。吉田松陰ですら尊王と忠藩の関係が不明確であったことは既に述べたが、実は明治になってから西郷隆盛がこの問題で、非常に苦境に追い込まれた。

 幕末から明治にかけて、薩摩藩で事実上の藩主のような活躍をした人物は島津久光である。島津久光は頑固な保守主義者であり、もともと公武合体の中心人物である。ところが時勢の流れで、尊王倒幕派として薩摩藩は明治政府の中心的な存在となった。そして明治2年の戊辰戦争の賞典において、久光は従二位大納言、久光の子で藩主の忠義は従三位参議に叙任され、賞典録10万石を下賜された。しかし7月21日にそれを辞退して、先の藩主・斉彬に従一位が贈られた。

 ところがこの賞典に際して、西郷隆盛が6月2日に、藩士最高の永世賞典録2000石、9月26日に正三位に叙せられた
 藩主が従三位であるのに、家来の西郷のほうは格が上の正三位である。勿論、西郷は、ただちに辞退届けを出している。
 もともと西郷と久光は思想的に非常に違う上に、その間に歴史的にいろいろなトラブルが起こっている。
 さらに明治4(1871)年7月14日の廃藩置県は、久光を激怒させたといわれる。
 明治6年の征韓論、明治10年の西南戦争にいたる明治初年の西郷には、自らの死をかけた不可解で異常な行動が目立つ。
 その裏に明治20年まで生きていた島津久光の西郷に対する怨念が、いつもちらついているように私には見える。            (つづく)






 
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  105  106  107  >> 
  前ページ次ページ