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1. アメリカ経済の行方―ドル本位制の終焉
2. ヨーロッパ経済の行方

3. 中国の政治・経済の行方(1) −毛沢東とその時代
(1)はじめに −中国における「政治の時代」と「経済の時代」
(2)中華人民共和国の成立
(3)中国の「民主主義」
(4)人民公社と大躍進 ―毛沢東の「三面紅旗」
(5)盧山会議 ―59年7月、政治局拡大会議
(6)文化大革命 ―毛沢東による思想統一運動
(7)現実路線への転換

4. 中国の政治・経済の行方(2) −ケ小平とその時代
5. ロシアの政治・経済の行方(1)
6. アメリカ・イラク戦争 −中東と世界の行方
7. アジア経済の行方
8. 21世紀の世界はどこへ行く?
9. アメリカはどこへ行く?(その1)
10. アメリカはどこへ行く?(その2)
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  3. 中国の政治・経済の行方(1) −毛沢東とその時代
(1)はじめに −中国における「政治の時代」と「経済の時代」

 20世紀がアメリカとソ連の世紀であったとすると、21世紀は、欧州連合と中国の世紀になるかも!という期待の中で幕を開けた。欧州連合は、2002年1月からは、統一通貨ユーロの流通が開始され、2004年からは、東欧諸国を含む25カ国からなる大欧州となる。「ヨーロッパ協議会」が設立され、統一憲法が検討されつつある。
 また中国は、2001年12月に念願であったWTO(世界貿易機構)への加盟を実現し、いよいよ本格的に国際商業の舞台に進出した。そこで今回は、中国の政治と経済をテーマに取り上げる。

 「中国」即ち「中華人民共和国」は、事実上、中国共産党の一党独裁の国家である。そのため、この国の将来を考える場合に、政治と経済を分離して考えることは出来ないが、毛沢東の時代は、国際的には米国とソ連、国内的には「修正主義者」との政治的闘争に明け暮れ、最後は「文化大革命」になり、政治的性格の強い時代であった。

 これに対してケ小平の時代に代わったここ10年、中国は「社会主義市場経済」という新しい思想を創造して、毛沢東が生きていたら激怒するほど資本主義的色彩の強い経済運営が行われ始めた。そして1997年には、従来、資本主義体制により国民経済を運営してきた香港を特別行政区として取り込み、更に1999年からはそれにマカオも加わり、現在では、中国共産党が指導する資本主義国家の性格を強めている。つまり政治より経済的性格の強い時代に大きく変わった。

 そこで中国の政治・経済を2部に分けて、第一部を政治的性格の強かった「毛沢東とその時代」、第二部を「ケ小平とその時代」にして、この半世紀の中国の政治・経済の流れを概括し、今後の行方を考えることにした。適当に選択して見ていただきたい。

(2)中華人民共和国の成立
 1949年10月1日、北京の天安門広場に集まった30万人の人々を前に、毛沢東は中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。そのときから新政府は内戦により荒廃した国土の復興と経済の再建に着手した。

 新国家成立の母体となったのは、中国共産党を中心にした8つの党派の代表で構成される中国人民政治協商会議である。「労働者階級を指導者とし、労農同盟を基礎として、各民主階級と国内各民族を団結させる人民民主主義独裁を実行し、帝国主義、封建主義ならびに官僚資本主義に反対し、中国の独立、民主,平和,統一のために奮闘する」という臨時憲法的性格をもつ共同綱領が採択された。

 五星紅旗を国旗、抗日戦下で歌われた「義勇軍行進曲」を国歌、首都を北京ときめ、主席に毛沢東、副主席として朱徳、劉少奇、高崗、宋慶齢など6人が選出され、周恩来が首相兼外務大臣に任命された。毛沢東は12月にモスクワへ飛び、スターリンと会談し、更に社会主義諸国をはじめとする国際的な外交関係の樹立へ向かって活動を始めた。その結果は、翌50年末までにイギリス、オランダ等を含めて25カ国が新中国を承認した。
 また国内では内戦のために農業は25%、軽工業は30%、重工業は70%も生産が減少しインフレが進行して、49年の6月から年末にかけて上海の卸売物価は12倍に跳ね上がっていた。

 当時、人口の8割を占めていた農業に対して、新解放区では地代を半分にし、戦時課税を一切廃止して単一の農業税に変えた。50年6月には、地主による土地所有制が廃止され、農民的土地所有制を実行して農業における生産性を上げ、工業生産への道を開く土地改革法が交付された。このことにより約2億6千4百万人の農業人口を抱える新解放区では、女性や子供への平等な土地分配を含む土地改革が行われた。

 また工業では、49年に外国資本ならびに国民政府の官僚資本系企業2,858を接収して国営とし、同時に近代的交通機関、銀行、対外貿易を国家に集中し、また国内商業への国家統制を強化した。50年6月には労働組合法が制定され食料の現物支給などにより、労働者の生活を安定させたことにより、52年頃までに全国の主な工業生産高は、すべて戦前の最高水準を越えるまで回復した。重要な原料や食料、現金を国家の管理下においたことにより、50年にはインフレも克服された。(小島晋治、丸山松幸「中国近現代史」岩波新書)

★東西冷戦と朝鮮戦争
 中国にとって不幸なことには、建国へ向かって歩み始めた50年代の初めが激しい東西冷戦下にあり、早速、1950年6月25日から始まった「朝鮮戦争」に巻き込まれたことにある。6月28日の周恩来声明では、「アメリカ帝国主義の中国侵略とアジア独占」の企みを激しく攻撃し、韓国軍だけが38度線を越えた場合は介入しないが、アメリカ軍が越えて北上した場合には介入することを明らかにしていた。

 10月中旬、韓国軍とアメリカ軍が中国国境まで迫ったとき、ソ連の勧告もあり、彭徳懐将軍に率いられた中国人民志願軍は雪崩のように鴨緑江を超えて朝鮮に入り、年末までに38度線まで押し戻した。国連軍司令官マッカーサーは、中国に対する原爆の使用を提案して、第3次世界大戦への突入寸前の様相を呈していた。幸い、51年4月にマッカーサーは罷免され、7月には朝鮮休戦会談が開始、世界大戦突入は回避することができた。

 この朝鮮戦争により中国は、人的・物的に多大の犠牲を払い、アメリカとの外交関係は長期にわたり修復不能な状態になり、やむを得ずソ連との結合を強めた。中国国内では、この間、抗米援朝運動が繰り広げられ、民族的結合が強められる反面で、新解放区に多く残っていた旧支配勢力、宗教的秘密結社、国民党につながる勢力が活性化し始めた。

 そのため50年12月から52年にかけて反革命鎮圧運動が大衆運動の形で展開された。更にこれと絡んで進行した土地改革が、流血の惨事を引き起こしていた。中国政府は、51年12月に「汚職・浪費・官僚主義」の3項目に反対する「3反運動」を指示・展開した。更に、この運動は、後に「反党・反革命」の2項目が加えられて、「5反運動」となり、近代民主主義,個人主義を批判して、その後の中国における文革、天安門事件にいたる弾圧の思想的基盤となった。
 中国の場合、「白髪参千丈」の喩えのようになんでも規模が大きくて驚かされるが、このときの民主化運動による死者の数は、最近の説では1千万人に上ったといわれている。




 
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