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(7)現実路線への転換
★外交政策の転換 −「反米」から「親米」へ
 70年代の初頭、中国の外交政策は、大きく転換した。既に、ソ連とは67年以来、国交が断絶した状態になっていたが、69年に入ると、3月にウスリー江上の珍宝島(ダマンスキー島)で中ソの国境をめぐる軍事衝突が起こった。更に8月には、新疆の中ソ国境で大規模な軍事衝突が発生した。その前年あたりから、直接国境を接しているソ連の軍事的脅威を強く感じた毛沢東は、アメリカとの国交の再開を模索し始めた。

 ソ連の軍事的脅威に対しては、東北や華北の主要都市に地下壕が掘られ、61年から71年にかけて、基本建設投資の11%が国防工業と国防科研費に投入されていた。この間、文革から隔離して進められていた核の研究・開発部門は、67年6月に水爆実験に成功し、70年4月には最初の人工衛星の打ち上げに成功した。

 この段階で、70年4月、周恩来は日本で行われた世界卓球選手権に参加していたアメリカ選手団を中国に招いた。これはまもなく「ピンポン外交」と呼ばれ、アメリカのマスコミに大々的に取り上げられた。中国が、アメリカに門戸を開いたことを、明白に内外に示したわけである。

 翌71年7月、ヘンリー・キッシンジャーは、アメリカ大統領ニクソンの特使として極秘のうちに北京を訪問した。この年の10月の国連総会で、中華人民共和国は台湾政府に代わり代表権を与えられ、安保理事会の常任理事国として国際社会に登場することになった。アメリカは公式には二重代表制を主張していたが、結局は蒋介石の国民党政権が国連の議席を失った。ここから中国は、正式に国際社会に認められることになった。

 1972年2月、ニクソンの歴史的訪中が実現し、台湾を中国の一部として認めさせるコミュニケを発表した。また9月には、田中角栄首相が訪中し、日中の国交正常化も実現した。翌10月、「人民日報」などの新聞は、「ソ連社会帝国主義」を第一の敵と規定する共同社説を掲載して、東西冷戦構造は大きく変貌し、中国も文革以来の孤立化を捨て、西側諸国と協調する路線を取り始めた。

★周恩来の「4つの現代化」と第一次天安門事件
 1975年1月、周恩来首相は、第4期全国人民代表大会、第1回会議の政治報告において、「今世紀中にわが国を、農業、工業、国防、科学技術の現代化された社会主義の強国に築きあげなければならない」として、「4つの現代化」の方針を提起した。そこでは中国が資本主義の高度工業国から先進的設備、技術を導入する必要性が示唆されていた。

 しかし72年以降、周首相のガンの病状が悪化していた。そのため、すでに73年8月の党第10回全国代表大会において党中央委員として復活していたケ小平が国務院の仕事を受け継ぐことになった。それとともに、毛沢東の「4人組」との権力闘争も激化した。

 毛沢東という人は、政治家というよりは、むしろ詩人・思想家であり、しかも観念論的な革命理論家としての性格の強い人であったように思われる。そのため人民公社といい、大躍進といい、文化大革命といい、実際の政策においては信じられないほど夢想的なところがあり、その都度、大きな混乱を国中に引き起こしてきた。
 中国は、いまだに毛沢東批判を本格的には行っていないが、中国の建国の途中からは、功よりも罪のほうが多くなっていたように思われる。この毛沢東を補佐して、常に実務的な政治家として中国という大国を支えてきた事実上の担い手は周恩来であった。

 周恩来は、盧山会議から始まり、表面的には毛沢東を支持しつつも、実際には毛沢東路線とは微妙な関係を保っていたように思われる。文革が沈静化してきた60年代末、中国の国際化への門戸を開いたのは周恩来であった。そしてガンによる死期を前にして、国内の「現代化」路線を、周恩来はケ小平に託した。

 ケ小平という人は、四川省出身。1920年にフランスで入党、モスクワ留学、長征に参加し、52年に副首相、56年に党書記局書記を勤め、59年の盧山会議にも途中から参加している。常に毛沢東とは明確に一線を画する姿勢をとってきた。文化大革命のとき党総書記であったケ小平は、「資本主義の道を歩む第2の実権派」として激しく批判されて、66年12月以降、消息を絶った。69年4月の九全大会では党中央委員にも選出されなかったが、73年8月、党中央委員・国務院副総理として、突然、復活した。これは、周恩来が、70年代の中国の国際化に対応して、文化大革命により荒れ果てた国内の「現代化」をケ小平に託したと思われる。

 76年1月8日、文革以後の中国の建設に向かっての希望の星であった周恩来首相が亡くなった。すでに中国の「国際化」は始まっていたが、「4つの現代化」はまだこれからの段階であった。周恩来の死の直後から、天安門前広場には哀悼の花束が全国各地から集まり始めたが、19日夜に急に撤去される事件が起こった。それから以後、公式紙誌は周恩来追悼の記事を全く掲載しなくなった。

 周恩来の墓参の日とされた4月4日の清明節が近づくにつれて、周恩来を悼む人々が花輪や詩を持って、天安門広場の人民英雄記念碑前に集まり、詩を朗読したり、演説したりし始めた。周恩来の追悼を通じて、4人組や毛沢東へのプロテストが始まったのである。

 4月5日には、この動きは頂点に達し、数十万の群集が天安門に集まり、ついには暴動に発展した。これが第一次天安門事件である。この最中に開催された党政治局会議での江青の要求を受けて、首相代理華国鋒は、鎮圧方針を決定し、葬儀で周恩来への追悼の辞を述べたケ小平は党籍保留のまま、一切の職務が解かれて、その後の行動に対して監察処分に付されることになった。

★唐山大地震と北京政変
 この年、7月28日に、河北省にある炭鉱と工業の町・唐山市を中心にマグニチュード7.8の大地震が襲い、死者65万人を出す大災害となった。この河北大地震は、毛沢東体制の終焉期にある政治的・社会的雰囲気の中で中国の心臓部を直撃する形になった。

 中国は各国からの救援物資提供の申し出でを固辞し、更に駐在外国人への退去勧告という措置に出た。「人が天に勝つ」として、一切の行動原理を「毛沢東思想」に依存してきた体制が、意外に虚弱であったことを知られたくないことからの措置であった。ところが、華国鋒がこの地震の対策に忙殺されている最中の9月9日(重陽の節句)に、ついに毛沢東が死去した。

 9月18日に行われた毛沢東の葬儀には、なんと葬儀委員長の名前が明示されなかった。そこには華国鋒(首相)、王洪文(党副主席)、葉剣英(党副主席)、張春橋(党政治局常務委員)の4名が別格で列記されていた。喪主は、毛沢東夫人・江青、葬儀の司会者は王洪文がつとめた。

 中国政治のすさまじさは、それから1月もたたないうちに明らかになった。華国鋒は、文革は肯定していたものの、この運動を推進した江青たちの「上海グループ」とは一線を画していた。この華国鋒が、「帝王」=毛沢東の喪も明けない、10月7日(6日の説もある)、毛沢東の名の下に「階級闘争」を進めてきた江青、王洪文、張春橋、姚文元を逮捕した。
 いわゆる「北京政変」である。この時点で毛沢東の時代は終わった。(第一部 終わり)




 
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